ブラッドリー『仮象と実在』 186

[可能性、偶然、外的必然性、相関的と絶対的。]

 

 蓋然性と偶然の一般的な性質をさらに考えてみると、いくつかの問題に光を投げかけることができる。(1)この問題については以前に、完全な蓋然性は実在と同じであるかを考察したときに触れた(383ページ)。この疑問についての我々の回答は、次のように要約される。蓋然性は思考と存在の分離を含む。しかし、他方において、これら両極端は本質的にひとつのものであり、それぞれが他方から切り離されているので、内的に欠陥がある。それゆえ、もし可能なるものがそれだけで完成できるなら、それは実在だということになろう。しかし、そこに達するには、単なる思考であることをやめ、結果的にもはや蓋然的ではないことになろう。

 

*1

 

 可能なるものは、常に観念と実在の分離を部分的に含んでいる。まさしくそれは先行する観念からの思考における結果である。それはある諸条件、それ自体は決して完全ではない体系、実在の領域を通る以外には実在ととらえられることのない体系から帰結する。そして、この最後の性質は必要である。可能そのものは実在ではない。しかし、その本質は部分的に観念を超越し、それが実際に可能的でなければ何の意味も持たない。それは実在の基礎から発達し、それと相関的でなければならない。それゆえ、無条件な可能性などは存在し得ない。別の言葉で言えば、可能なるものは常に相関的である。もしそれから自由になろうとするなら、可能なるものであることをやめる。


 おそらく、相関的な偶然の性質のことを思い返せば(第十九章)、このことがよりよく理解されよう。偶然とは、観念的全体や体系からはみ出る所与の事実である。そして、いかなる要素も、そうした普遍的なもののなかに含まれていないなら、そうした普遍と相関的なむき出しの事実であり、相関的な偶然である。別の言葉で言えば、偶然はそれ以上のものでなければ、現実の偶然ではないだろう。それはある種の観念に関しては否定的に見られるが、それ自体がすでに観念的でないなら関係のなかに存在することはできない。そして、再び、可能性のうちにもそれに対応する意味合いを見いだす。可能なるものは、それ以上のものではなく、部分的に実在ではないなら、可能的なものではないだろう。その諸条件の一部が理解されるような現実的な基礎がなければならず、その可能性によって、またそれにおいてその現実的基礎があらわされる必要はないが、理解はされてよいのである。そして、諸条件は多様であり、実在としてとられる部分は多くが可変的なので、可能性もそれに従って変化する。それが自ら完成する方法、そして、特に、それが含む現実的な基礎には、どちらも多様性が可能である。かくして、多様な諸関係が理解されるに従って、ある要素の可能性も異なる。可能性と偶然とはこのように互いに支え合っているといえる。現実的事実は、それ自らの存在に含む観念的な補完物を多かれ少なかれ無視している。それゆえ、それをそれとは異なるなんらかの体系との関連でだけ見るなら、その限りにおいて現実的事実とは偶然である。他方において、可能なものは、観念的補完物のある部分を明らかに孤立させており、同時に、多かれ少なかれ曖昧ではあるが、実在の完成を含んでいる。それゆえ、それを補完するのに必要とされる多様な諸条件に従って変動する。それら諸条件の部分は、現実的存在を持っていなければならず、そのようなものとして実在でなければならない。


 この考察は、可能性の最低の段階に向かうときも有効である。第一に、意味がないとは言えないある観念を取り上げる。第二に、この観念は自己矛盾も実在との背反も見られない。それゆえ、そうした欠陥はないと私は仮定する。そして、その強固さのもとに、私はそうした観念を可能だと呼ぶ。ここで我々は相関的なものから無条件の可能性へ移行したように思われる。しかし、この見方は誤りであろう。ここでの可能なものは、ある部分現実的である諸条件からのひとつの帰結に過ぎない。というのも、その特殊な諸条件について我々はなにも知らないが、それを無視することはないからである。我々はそこに実在が有する多かれ少なかれ一般的な性格を、物質的で形式的な性格を仮定している。この性格は可能性の現実的基礎であり実在の根拠である。それがなければ、観念は可能であることもなくなってしまうだろう。

 


 それでは、関係的ではなく、ありのままで絶対的で条件づけられていない可能性や偶然についてはなにを言うべきなのだろうか。それも同じ根本的誤りのひとつの側面を提示しているといわねばならない。それぞれは異なったやり方で、主要な同じ自己矛盾をあらわしている。おそらくこのことは詳細にわたって示す価値があるだろう。単なる可能性では、実在とのあらゆる関わりが所与において欠けていることが肯定的叙述の根拠として方らあれる。むき出しの偶然もまた、ひとつの事実として与えられ、それゆえある関係のうちに与えられるが、その要素は無関係であることを主張している。この発言を説明してみようと思う。


 私はある観念を持っており、私の見解ではそれについてまったく知るところがないので、それを可能なものと呼んでいる。さて、その観念がある意味を持っており、自己矛盾していないなら、それは(すでに見たように)観念において肯定的な性格を持っている。そしてそれはその限りにおいて、それが現実的であると見なしてよい根拠を持っている。そして、そうした可能性は、すでに見たように、実在の属性と関係を有しているが故に、相関的な可能性であるに過ぎない。絶対的可能性では、我々はこの知識を持っていないと思われている。私の観念と実在との間になんらの関係も見いださないゆえに、そのことから、私の観念は矛盾していないと主張する。この主張は明らかに不整合である。矛盾しないとは、その部分において真だと認められることを意味する。それは内的に実在と関連していることを意味する。それは同化を意味し、実在のなんらかの性質や諸性質によって、要素が浸透していることを含んでいる。もしその要素が矛盾しないなら、多かれ少なかれその特殊な性格は破壊されて残ることになろう。そして、単なる可能性において、私は実在と矛盾しない意味を保持している。両立不可能性がないとみるなら、つまり、ある種の知覚に目を閉じているなら、私は自分の観念を矛盾がないものと呼べるだろう。別の言葉で言えば、私の無知を根拠として、私は自分の観念が同化され、よし大きくか少なくかはともかく、実在のなかに生き残ることになろう。しかし、そうした立場は非合理的である。


 無条件的に可能なものは、実在との関係においては、距離をもって見られ、傷つけられたままにとどまると思われる。見て取れる関係は存在せず、それゆえ、我々が仮定する観念に浸透し、変化させてしまうような異質な関係は存在しない。たとえ観念が実在に適用されるときでも、このことは変わらない。しかし、実在との関係は本質的に実在が有するものとの関係を含み、外側からの手がかりとなるような関係は持たない。それゆえ、可能性自体は、その意志に反して、ある極端な関係づけである。というのも、事実上、我々が精神にもつ実在と結合しているからである。そして結合は外的であるので、関係づけられるのは、外的な必然性によって与えられる。しかし、外的な手段によるある要素の必然的な関係は、すでに見たように、その要素が内的には途絶することを意味する。それゆえ、それが存在しうるとしても、我々が知るように、単なる可能なるものとは誤りでしかないだろう。というのも、我々の知る限り、それはどんな方策によってもいささかも実在に受け入れられることのない観念であろうからである。この意味においては、可能性は自己矛盾している。実在に現実的な基礎がなく,明確な関わりのない可能的なものは、端的に、少しも可能的ではない。(1)

 

*2

 

 絶対的な偶然にも同じような自己矛盾がある。絶対的に偶然であるとは、その文脈とのあらゆる内的関係から自由であることを意味するだろう。それは諸関係なしにある、あるいはあらゆる関係の外側にあるだろう。しかし、ある事物がそれがある関係によってなり立っていなければならぬのなら、絶対的偶然とは外部から完全に決定されていることになろう。そうであるなら、偶然は完全な内部の消失を含むことになろう。表向きは仮定している存在を内実は排除していることになろう。偶然が単なる偶然以上のものでなく、相関的なものであることを認めるなら、偶然であることに失敗する。相関的な偶然は、ある観念的な全体のなかに含まれることであり、それに基づいて他のなんらかの全体との外的な関係を主張することである。しかし、絶対的な偶然は、あらゆる関係は存在の外部にあると主張しながら、関係する明確な存在を認めねばならない。そうした観念は自己矛盾している。


 あるいはまた、同じ相反を次のように提示することもできる。所与の要素において、我々はそれがなんらかの体系とつながりをもっていることを認めることができない。内的な関係を超える内容を見て取ることもできない――内的な関係は、観念的なものなので、必然的であり、永久的である。そして、この誤りを根拠にして、否定へと進み、そうした内的関係など存在しないことを主張する。しかし、すでに学んだように、あらゆる関係は本質的にその項となるものの存在に浸透し、その意味において、内的である。あるいは、別の言葉で言えば、あらゆる関係は内容の関係でなければならない。それゆえ、観念的な関係をすべて欠いた単なる偶然は、まったく非関係的である。しかし、関係がなく、傷ついてしまうと、それはもはや個別の要素ではない。それは絶対的な偶然によってもたらされるような存在を持ち得ない。


 偶然と可能性はひとつの複合物の二つの異なった側面だということができる。相関的な偶然はある部分、つながってはいないが、理解されているものでしかないことを意味する。それゆえ、それは存在しているが、部分的にはなんらかの形ででしかない。他方において、相関的な可能性は、不完全なものと理解され、多かれ少なかれ、なんらかの形で実在であると受け取られる。かくして、それぞれ不完全なやり方で実在をあらわしている。あるいは、お望みなら、別の形で区別を繰り返すこともできる。偶然そのものにおいては、なにものかが与えられ、それゆえ、外的な関係の関わりのなかに与えられている。だが、それは内的に関係していると見られることはない。また、抽象的に可能なものは、非関係的である。しかし同時に、実在と関係しているととられ、それゆえ、外的な関係関係とともに与えられているとは気づかれていない。偶然は本質的な関わりを忘れていると言うことができる。そして、可能性は、事実としてある実在との関係を忘れ、つまりは、文脈との外的なつながりが与えられていることを忘れている。偶然は経験の世界に属し、可能性は思考の世界に属する。しかし、そのそれぞれが中心に同じ欠陥をもち、その意志に反して、それだけのものとしてとらえられると、外的な必然性となる。(1)もし可能なものが与えうるなら、それは偶然や運命には無関心なものとなろう。偶然が考えられるなら、同時にそれは単なる可能的なものでしかない。というのも、不測のものは、実在との完全な関係をもたないからである。

 

 

*3

 

 このことで、おそらく長くとどまりすぎたこの問題から離れることができよう。絶対的偶然、外的な必然性、無条件の可能性などはといったものは存在しない。可能なものはある意味、実在すべきだが、それは内的で、必然的なものを意味する。また、同じことは、偶然においても正しい。それぞれの観念は相関的で、同じ複合物の対照的な側面を強調している。それゆえ、強制的に一方に寄せると、どちらも消え去ってしまう。

*1:(1)蓋然性については第二十七章、および『論理学原理』の第一巻第七章と比較のこと。

*2:(1)可能性は、もしそれを無条件的なものとしようとするなら、ある意味考慮不能なもの、不可能なものとなることに心を止める価値はある。不可能な実在は、明確な知識とは矛盾する(第二十七章)。それは実在と結びつけることができないことは決してない。しかし、間違ってこの意味にとり、単なる欠如の上に基礎づけることになると、不注意によって無条件的な可能なるものへ向かうことになる。事実上我々は精神のなかに実在を持っているが、それは現実的には実在と両立不可能である。そのそれぞれの観念は端的に、悪意をもって欠如に基づいており、それぞれは同じ複合的な自己矛盾の異なった側面である。

*3:

(1)最終的に、可能性と偶然が、そして、偶然と外的あるいは非情な必然性が同一視されることは、教訓的な帰結をもたらす。明らかに、ごく卑俗に自由意志と呼ばれているものを評価する正当な根拠をもたらすことになろう。この教義は一般的な倫理学では盛んに唱えられているが、哲学においては廃れたものと考えられている。その意味合いが理解されるやいなや、すべての説得力を失うだろう。しかし、自分がなにを意味しているかを知らない大衆的なモラリストというのは常に存在し続けるだろう。