ケネス・バーク『動機の修辞学』 65
... 6.イエーツ:「ビザンチウム」と後期の詩
「向かい合わせの鏡に映る、すべてがみせかけだ」とイエーツ後期の厳しい時期の詩にある。初期の作品で「純粋な心」から生じた「我が物顔のイメージ」を問い直して、くずに過ぎないと答える。
ごみの山、通りで掃き寄せたくず
古い釜、古い瓶、つぶれた缶
古いアイロン、古い骨、古い布、いままでどんちゃん騒ぎをしていた
売春婦が残したもの。私の梯子が取り去られたいま
すべての梯子が立てかけられる場所に横たわらねばならない
不潔なくず売りの場所に。
幸福な時代における「梯子」は「塔」へと昇る「螺旋階段」だった。実際、ここでイエーツは非常に率直に位階の問題について語っており、直截な排泄物の秩序においては、「登攀によって目指される」頂上が消え去ると、「ごみの山」がむき出しになってあらわれるという脅威を示している。
初期の詩で彼は、その一つからヘレネーが、別のものからはカストールとポリュデルケースが生まれたレダの卵について書いている。レダと白鳥について無我夢中で書いた。イリアードの英雄的な物語は、彼らの結合によって胚胎され予言されていた。ヘレネーは愛、カストールとポリュデルケースは戦争、古代ギリシャの二つの英雄的主題である。しかし、はしごから下りてしまったいま、彼は同じものを輝きのない状態で見いだす。彼は「ごみくず」について書くのである。
二編のビザンチウムの詩において、彼は死と悲劇的に、しかし喜びに満ちて直面している。どちらの詩も金のしるしのもとにあり、精神分析学が教えてくれるように、それは両義的なシンボルである——守銭奴の陰惨な動機を引きだすものでもあれば、排泄物の意味合いもある。彼が自分を「永遠の術策に」捕えられたと考えるとき(一種の不死であり、キーツの壺のように美的なものでもあるが、排泄物との両義性ももちうる※)、金は超越的なエクスタシーに変容し、その語は不規則に響きあう繰り返しとなってあらわれる。
かつて私は自然から私の身体を
形づくるようなものを取ったことはなかったが
ビザンチウムの紳士淑女に
過去、現在、未来について
歌い聞かせるための金の止まり木
眠たげな皇帝を目覚めさせておくため
ギリシャの金細工師によって
打ち出され光り輝く金は別である
ここで、死による腐敗は婉曲に不死へと移しかえられている。英語ではまた、「金gold」は「神God」とそう遠くない響きをもっている。同じように、別のビザンチウムの詩の最後で、「傷ついたイルカ、苦痛で鳴り響く海that dolphin-torn,that gong-tormented sea」について書かれるとき、地口によって詩的に偽装された異教的な響き、喜びを発見できないだろうか。つまり、「傷ついた悪魔、苦しむ神の海that devil-torn,that God-tormented sea」と聞き取ることはできないだろうか。
我々はホプキンスやイエーツの作品を神秘的な詩の主要な例と考えているわけではない。しかし、少なくとも、我々が考察してきた高揚の瞬間において、神秘主義の痕跡が認められる。どちらの場合も、これまで詩人が「恩寵」のうちに休らっていた場がなくなると、「自然」が暴威をふるう重荷としてのしかかってくるのである。