ブラッドリー『仮象と実在』 187

[可能性の程度。]

 

 このことから我々は、可能性と偶然性に程度が存在するかどうかを問うべく仕向けられるが、この問いに対する我々の答えは、肯定的なものでなければならない。多かれ少なかれ可能的なもの、多かれ少なかれ真であるもの、内的に必然的であるもの――別の側から見れば、多かれ少なかれ偶然的なもの――は、最終的にはみな同一である。ついでに、ここで、我々の基準の二つの方向での適用が正しいものであることを立証できよう。より可能的であるものは、内的により調和がとれ、包括的なものである。別の言葉で言えば、実在への過程、実在との統一を含み、内容の完全な全体性により近い。あるいはまた、別の見方をすれば、より可能であるものは、より大きな観念的集合のなかで実現している。あらゆる接触は、時間的系列の一点とのものであっても、具体的な諸関係の集団との観念的な関わりを意味している。それゆえ、より広範囲にわたる可能なるものは、その外部に、より小さな内容しか見いださない。別の言葉で言えば、それはより個的であり、より真であり、より実在である。それはより多くの関わりを持っているので、それ自らにおいてより内的な必然性が大きい。別な側面から言うと、同じような理由から、偶然性の増加は、虚偽の増加を意味する。より外的な必然性の高いもの――理解可能な体系に外側からの接続をより多くもつもの――は、それが存在する限り、なんであれ関わり自体はより少なくなる。それゆえ、より空虚になり、すでに見たように、自足し調和的なところがより少なくなる。この簡単な考察は、常識の眼から見ても正しいものだと思われるが、おそらくは我々の主要な主題となり、擁護されるものとして見いだされることになろう。