ケネス・バーク『動機の修辞学』 66

...   7.エリオット:初期の詩と「四重奏」

 

 エリオットの場合、反対の方向が認められ、範囲も狭いが、考察と議論には十分である。つまり、詩人は、「登攀の有効範囲」としては希薄であったイメージを後により豊かな意味合いで使うようになった。それを示すために、「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」や「ある婦人の肖像」といった初期の詩の構図から始めよう。

 

 下降していく雰囲気。抑制され、洗練されているとさえ言える悲嘆(ジュール・ラフォルグによって最初に開発された身振りであるが、彼の場合悲しさわびしさは心からのもので、優雅さそのものにアクセントが置かれている)。こうした用心深さを朗々と流れでる聖書の悲嘆と対比してみよう。現代スタイルには社会的エチケットと文学的な如才なさが含まれている。虚弱さがある。

 

 蟹が連想される。プルーフロックが「私は一組の不揃いな鋏をもち/静かな海の底を急ぎ足で横切るのだ」と言うとき、彼は自分自身の本質的な動機づけを定義する劇的言語のなかにある。後に、能弁でありながらふさぎごみがちの「風の吹く夜の狂詩曲」においては、このテーマが巧妙に変奏される。「ある午後のプールに一匹の蟹/背中に富士壺をつけた年老いた蟹/ステッキの端で押さえ込む」、この行為自体がある種の蟹的なコミュニケーションをあらわしている。

 

 また、強い傍観者的な姿勢、街なかの劇を非個人的に、ほとんど統計的に見る視点があり、第二序曲では「千ものありふれた部屋で/薄汚れた影を投げかける/あらゆる手のことを考える者」とある。これは都市の詩であって、自然の詩ではない。この点は、後に詩人が関わることになる超越の洗練された弁証法的性質をもたらすものとして記しておく価値がある。

 

 大都市に住む観想的な詩人は、必然的に、ほとんどの一般市民に対して無関心な姿勢を取ることになる。このことは、ごく一般的なやり方としては、人類を全体として包み込む、ホイットマン流の人なつこさ、理想主義的身振りとして表現されることもあり得る。或いは、その反対の極端な例としては、堅く口を閉じる超然とした姿勢もある。しかし、詩人が口を閉じることはない——表面的な友愛への嫌悪はやや緩和されたよそよそしさとなり、「統計的な」姿勢は軽い悲嘆で緩和されることになる。ここには満たされない感覚が強く示されており、個人的な知り合いに会ってさえ隔たりを感じ、宮廷作法は曖昧なままに失敗するのである。それが哀調に満ちた次のような詩句になる

 

百ものためらい

トーストとお茶をとるまえの

百もの視線とその修正

 

 

そして、しばらくの中断の後に、

 

実際、時間はあるだろう

「思い切ってやってみようか」と自問し「思い切って」

ふり返り階段を下りるだけの時間は・・・

 

 

 このためらいがちの雰囲気に関連して、二つの注目すべきアンチテーゼが生じる。一つは、アペネック・スウィーニーの主題であり、彼はがさつで力強い無骨な男性で、隣のベッドで女性が癲癇の発作を起しているときでも髭を剃ることができる。スウィーニーは浴槽のなかで「飲み食いする」。こうした荒々しさ、動物的欲望に反応して直接的に行動する低次元の生命がある。

 

 もう一つのアンチテーゼは、遠くからのかすかな音楽、水中の音楽、人魚によって歌われる遠くかすかな水中での音楽というイメージがあり、このイメージは、別の行動が示唆されることによっても満たされない可能性であるためらいに合っており、甘美な性的意味合いをもっている。

 

 下降していく雰囲気は、「荒地」においては懈怠、或いは神秘的な乾きに近づく。実際、生殖は陰鬱なしるしのもとにあり、反語的に火の教訓と呼ばれる第三節では、「二つの生の間で脈打つテレシアス」、「皺だらけの乳房をもつ年老いた男」が「お茶の時間に家にいるタイピスト」と「小さな家の販売人」との露わな情事を目撃する。根深い不満をもって、遠くから眺めるというこれらのエピソードは、詩人の社会的乾きの記録である。現代をあらわすみすぼらしさが、上品さが通用していた過去の文脈と較べられることで、もう一つの対照が生じる。

 

 最後のエピソード、雷鳴が言ったこと、で社会的乾きのテーマは、最終的に純粋に自然な乾きのイメージに集約される。肥沃さをもたらす水の要求は、我々に幾分無謀な危険を冒すことを促す連に続く。詩人が注釈でそう説明しているからである。彼が自分のしたことを知っていることは誰もが同意するだろう。だが、我々は別の説明をしてみたいと思う(言い訳すれば、この説明は彼のと矛盾するものではなく、補うものである)。

 その連はこうである。

 

いつも君のそばを歩いている三人目の奴は誰だい。

数えてみると、君と僕しかいない

しかし、行く手の白い道を見上げると

いつも君のそばをもう一人歩いている

茶色の外套をまとい、フードをかぶっているので

男性なのか女性なのかもわからない

——君の向こう側にいるのは誰だい

 

 

 注釈にはこうある。「以下の詩句は、南極探検にヒントを得た(何回目のかは忘れたが、シャックルトンが行ったどれかだと思う)。探検隊が体力の限界に達すると、実際の数より<一人メンバーが多い>という錯覚に悩まされるという。」

 

 この注釈に重ねる我々の注釈は、次のような考察に基づいている。ある友人がかつて語ったところによると、彼の生涯において顕著な変化があったあと、変化の前に親しくつきあっていた人々と会う機会があったが、それほど長く仲間が一緒にいるのは見たことがなかった。このとき、様々な出来事があったにもかかわらず、古くからの関係が再び確立された——しかし、軽い幻想がつきまとうことになった。幾度も幾度も彼は出席者の数を数え直した。部屋にいるのが何人だろうと、彼はもう一人いるに違いないという思いに捉えられるのだった。後に彼は幻想をこう説明した。あの部屋には余分な人物が一人<いた>のだ。というのも、彼自身が分裂した心をもっており、そこにいる人々に、前の自分と後の自分という二つの人格を結び合わせていたからである。そこには二人の彼がおり、幻想のなかでそう言い続けていたのである。

 

 このことが現在の事例に関わっていないだろうか。ここにあるのは<ひときわ優れた>移行期の詩である。新たなモチーフは詩の最後で、幾分主知的なかたちであらわされる。それは現実的な達成というよりはむしろ決意のあらわれである。まさしく発端である。まさしく新たな動機の生じている場所で、詩人のなかに分裂があらわれないわけがあろうか。この分裂という内的な感覚の外部における対応物(批評家としてのエリオットが「客観的相関物」と呼んだもの)がこの幻想によって象徴化されていると考えていけないわけがあろうか。

 

 しかしながら、この説明は我々のいまの考察にとって本質的なものではない。我々の目的には、この詩が移行期のものであり、初期の様式と「四重奏」の中間にあることだけが認められればいいのである。その結末において達する「平安」は純粋に形式的なもので、慣習的な告別のようである。「寂静」は「理解を超えた平安」を意味するのだと語られるが、ここに差し挟まれた表現の幾つかは公表時には取り去られた。神秘的至福をあらわすものとしては、紋切り型とほとんど変わらない。

 

 新たに獲得されたもっともしっかりした立場にさえ、後戻りはあるものだから、三年後の「空虚な男」において、乾きと不能のイメージがより極端になったのも驚くには当たらない。しかしながら、ウパニシャドからの引用は、主の祈りからの途切れがちで断片的な抽出に変わっている。(世界の終わりについて語ることは、<本質的な>動機づけについて述べることであり、間接的に詩人の動機をあらわすことにもなる。)

 

 「灰の水曜日」は新たな登攀をあらわしている。「三階での最初の曲がり角で・・・三階での二度目の曲がり角で・・・四階での最初の曲がり角で・・・」最終的に

 

徐々に衰え、希望も絶望も越えた力で

四階をのぼる。

 

 

 明らかに、ここにはまだ問題がある。まだ低く、階段は険しい。ダンテにおいては、高く登れば登るほど、登攀が容易になると言われた。同じような進展を語る聖テレジアは水のある庭園を喩えとして使い、神秘的共感へと進む祈りの過程を示した。最初は、泉から水をくみ出すように、多大な労力を伴わないわけにいかない労働がある。次に、滑車と桶が使われる。三段階目には、庭園に小川を通す。そして、四段階目、「雨が水をもたらしてくれる。我が主が庭を潤してくれ、我々にはなんの労働もない。これこそが最上の方法である」。各段階において、水を得ることは容易になっていき、第四段階においては、ホプキンスが口の中で破れる果実の比喩で語ったように、自然の力が殺到するかの如き土砂降りとなって向こうからやってくる。

 

     瑞々しさを保ち、豪華に装ったリンボクの実

   その果肉が口のなかではじけ

ほとばしる——酸っぱさや甘さとともに流れだす

人間の肉体という器いっぱいに。

 

 

 神秘的な経験を評価するにあたり、我々が精神分析の類が多く認める両義性にたどり着いたのは確かである。それらについては未決定のままにしておこう。我々の目的には、神秘的な詩には、いかに解釈しても(「自然」によって解釈しようが、「恩寵」によって解釈しようが)、そうした両義性が残るのを認めるだけで十分である。

 

 登攀という教訓的なシンボルが、我々があげた要素をすべて含むと仮定し、全体性という側面からそれを見ると、エリオットの詩では階段の登頂が困難なものにとどまっているのがまず認められる。そこには安楽さはない。それゆえ、その点に関しては、イメージが十分に要求に応じていない。しかし、顕著な変化もある。というのも、イメージが我々の引用した「プルーフロック」の一節よりも豊かな倫理的内容を<もって>おり、同様に「ある婦人の肖像」にあった内気な求愛への皮肉も超越しているからである。

 

わずかな不安のほかには、くつろいで

私は階段を上り、扉の取っ手をまわす

そして、跪いて登ってきたかのように感じる。

 

 

 『四重奏』において、こうした変化は数多く見られる。「荒地」の乾ききった砂漠の岩は宗教的な毅然さをあらわす岩となりうる。初期の頃にあった、人間の優柔不断がもたらす満たされない可能性についての悲嘆は、人間に本質的なためらいへの普遍的な考察に向かうことができる。薔薇園について語ることは多様な意味をあらわす。(1)純粋に世俗的な喜び。(2)たかまりゆく喜びの定かならぬ予感。(3)最終的な神秘の開示とそれに包まれること。火はパラドックスがそうであるように二重の本質を持ちうる。

 

唯一の希望、もしくは絶望は

選択にかかっている、火葬の薪を選ぶのか、或いは

火によって火から力を取り戻す薪を選ぶのか。

 

 

 関連した多くの弁証法的操作が為されうる。最高度の普遍への還元は、永続的で「無時間的な」原理を許すものであり、「永遠」は純粋な存在(制約の超越に関しては無と区別することができない)に等しいとほのめかされているから、禁欲と<否定経由で>あらわされていた乾きにも良い意味合いへの可能性が存在することになる。

 

内的な暗黒、欠乏

無一物

感覚世界の枯渇

空想の世界の空疎化

精神世界の無活動

 

 

 運動の目標とするのは静止である。北に旅しても、方向自体は動かない。音楽の構造は、音楽が聞かれているにしろ聞かれていないにしろ、まさにそこに<ある>。弁証法的に言えば、「運動の抽象以外のあらゆるものが動く」(マルクス)。そこにパラドックスの生まれる余地がある。

 

 偶然性の世界は無条件の領域と正反対のものとして位置づけうる。純粋に一時的な動機づけ、アペネック・スウィーニーの蒙昧な領域、統計的に捉えられた時間、初期の疎隔感はいまや<永遠の相のもとにおける>観想となる。

 

 また、一時的なものは永遠と混じり合うこともできる。それは、上方への純粋化の後に下方へ向かうことである。

 

 歴史の契機は死すべき者が永遠を見て取るのに必要であり、人間の過去を形成するものでさえあって、永遠を可能にする意識と歴史において過ぎ去りゆく意識が一緒になる未確定な契機のもと過去は超越的に認識される(或いは、弁証法的に言うと、個々の行為者が個物と普遍との裂目を橋渡しするときに)。初期の満たされない可能性を「記憶のなかで反響する」「足音」へと変化させうる技術のもとがここにはある。そして、いまや形成の契機となる精神と混じり合っているがゆえに、それらは二重の性質をもつ。初期の、控えめな可能性は、後のより高次な可能性をぼんやり予感させるものとみなされる。初期の薔薇園の薔薇には(実際にはなされなかった選択だが、手招きとして感じられた)究極的な神秘的薔薇が含まれ得る(四重奏の第四の結末で称揚されている)

 

炎の舌が

王冠をいただいた火の結び目に包まれ

火と薔薇とが一つになるとき。

 

 

 要約すると、『四重奏』を象徴的行動という観点から捉えるときにまず問うべきは、どのような弁証法的材料が活用されているかにある。言語的方法に関する限り、弁証法的還元が難なく可能にする上方へ向かうイメージと置き換えることで、初期の下方へと向うイメージに、新たな動機づけを与えるのに詩人が主として用いている手段は、弁証法的登攀のピラミッド(ヘラクレイトスに源がある)なのは明らかである。そこには変化の要素と、普遍的な変化しない要素がある。行為者の心や意識は二つの秩序を媒介するものとなりえ——それゆえ、詩人は下方へ向かう主題から上方へ向かう主題へ我々の向きを変えることができる。かくして、「イースト・コーカー」の最初の言葉は「私の始まりは終わりである」で、最後の言葉は「私の終わりは始まりである」となっている。最初の言葉は、機械的な必然性によって進む個物の偶然の世界が要約されている。逆転された最後の言葉は、普遍的な領域への転換の可能性を示している。

 

 まとめると、ここでの弁証法の材料は次のようになる。

 

永遠に関する言葉

時間に関する言葉

二つの領域が交差する地点に関する言葉

永遠が染みわたった時間に関する言葉

時間的なものを要約し、超越する言葉

束の間に永遠を見て取る逆説の言葉

 

 

こうした材料は様々な形象となってあらわれると予想される——我々はどの材料が活用され、どんなイメージとなっているか認めることで、テキストの各点について「判定を下す」ことができる。