ケネス・バーク『動機の修辞学』 67

...   8.撞着語法の原理

 

 行為者と場面を含み、言語を越えた場も存在する。だが、文学の学徒として我々は、詩人が一貫してあることを語るときに、諸感覚に訴えるだけでなく、「神秘的解釈」そして/或いは「社会神秘的解釈」によって輝きと共鳴を引きだすようなイメージを用いる際に、どんな言語的資源に頼るのかあらわにするよう努めるべきである。神秘主義者は、最終的には撞着語法(矛盾する要素を単一の表現で結びつける)によって語るので、多かれ少なかれそれとは隔たった「文学的神秘主義」の場合にも、互いに異なるモチーフがあるイメージや観念のもとに束ねられているのを見ることになろう。

 

 もちろん、ある意味、文学的神秘主義というのは語の矛盾である。というのも、ジェイムズが指摘するように、神秘家の経験は「言語に絶した」ものだからである。しかし、詩は表現であり、神秘的詩は「言語に絶したものを表現」しなければならない——カントなら<不可能な存在Seiendes Unding>と呼んだであろうものに達しなければならない。

 

 しかしながら、実際には、こうした障害に頭を悩ませる必要はない。仮に「厳密な意味での神秘主義」(教会が公式に認めた十字架の聖ヨハネ聖テレジアのような神秘家が含まれる)の存在を認めるとしよう。次に、彼らの書いたものにあり、純粋に技術的な意味で目立った特徴に注目し、そうした特徴のすべて、或いは幾つかをもつ作家を神秘的とすればいいのである。ある場合には類似は大きく、ある場合には断片的な相似があるに過ぎないだろう。些末な撞着語法が、大きな神秘的撞着語法に関係していることもあり得る。<しかし、我々は注意深く、彼は神秘的モチーフの断片を扱っているに過ぎないことを認め>、それを「啓示」の一例とするのは行きすぎであり、せいぜい聖人の「恩寵に満ちた」経験を遠くから「自然」言語を使って示しているに過ぎないと認めることにしよう。(これに類したことは、神学者による「恩寵の聖別化」から世俗的な至福をあらわした詩に眼を転じるときに起こる。)

 

 例えば、恍惚状態で海、空、山を見やり、その情景を「畏怖を起させるあらゆるものが合一している」と言ったコールリッジは、続けて、「崇高と美との完璧な融合であり、同じ瞬間に別々の能力によって感じ取られるが、各能力が影響を与え合うようあらかじめ土台づくりがなされている」と論じる。(再び『アニマ・ポエタエ』からの引用。)「美」ということで、彼は眼に訴えるもの「形と色のあるもの」を意味している。「崇高」では、場面の「広大さ」を通じて「心に」訴えるものを意味している。

 

 この一節は、経験における美と位階との出会いと呼べるものについてのはっきりした関心をよくあらわしている。コールリッジの区別によれば、美は純粋に感覚的な訴えかけをなし、崇高の観念は位階の原理を含んでいると思われるからである。崇高さは道徳的知的「広大さ」にある。崇高さが平原、海、空、山のような物理的対象によってあらわされているときでさえ、我々とそれらの力との対照、比率が極めて位階的なので、それらは「道徳的」である。次に、感覚秩序と社会秩序が互いに影響するものである限り、物理的力との畏怖と喜びに満ちた同一化は個人的<自由>の超越的な感覚を呼び起こすものであり得る。つまり、実質にまつわるパラドックスによって、自分の比較にならぬほどの小ささを考えながら、同時に、山の巨大な存在と想像的に同一化できる。同一化は、我々の限界を超越するゆえに、自由の感覚を与える(我々が自分の限界を気づいている場合にのみ効果があるのだが)。論理的矛盾(同時に圧迫されて<もいれば>自由でもある)は、ある種固定化された進行、或いは凝結した順列として(圧迫<から>自由<への>変化として)疑似時間的なものと感じられる。経験はかくして「高められる」。※悲劇的崇高性に染みこんだ位階的判断は、滑稽さによって逆転した形で例証される。

 

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 同一化自体が一種の超越である。例えば、個人は集団と異なるものであり、集団との同一化はそれによって集団との相違を超越することである。それゆえ、説得が純粋な説得の「メタレトリック」に終わるように、同一化も神秘主義の、無限小のはかなさと無限大の力との同一化において究極的な表現に達する。自然の「崇高さ」との同一化は、神秘的なモチーフの大きめの「断片」として分析されるだろう。我々はそこに、完璧な範例からは取り除かれる同一化と撞着語法の微かな痕跡を認めることができる。

 

 例えば、ヒロインの死に終わる結末を、雨のなか黙って歩いていく主人公の姿によって描く小説もあり得る。涙はない。「控えめな表現」だけがある。天が彼のために泣いていると取れないだろうか。リアの精神錯乱やワグナーの二元化された場面が暴風雨を巻き起こす様子を思い起こすがいい。(第三幕第四場、狂気の宝庫。道化、エドガー、リア、嵐は、リアが「我が心の嵐」について言及することで締めくくられる。)或いは、ヴェルレーヌの同様の気象学的効果、「街に雨が降るように我が心にも雨が降る」を思い起こしてもいい。

 

 つまり、涙のシンボルとしての雨がある。感情の密かな神格化があり、感情を間接的に「天上的な」ものとしている。しかしまた、雨は豊穣のシンボルでもある。春らしい芽吹きをあらわす。涙によって水を注ぐことは、次の局面への準備がなされているとも言える。こうして、涙の観念は想像上の等価物である雨へ翻訳できる。そして、雨のイメージはもともと再生の観念も含んでいる。(社会学者のトーマス・D・エリオットは「厄介払いの儀式」と呼ぶものについて述べており、死んだ者を褒め称える儀式は、悲しんでいる者と故人との紐帯を断ち切るのにも役立つのである。)

 

 我々は仮定としてこの筋立てを語っている。しかし、この配合はヘミングウェイの『武器よさらば』の結末に当てはまりはしないだろうか。主人公が雨のなかホテルに戻るということがつけ加わる。この目的地は新たな情事の可能性をあらわしていないだろうか。

 

 あるいはまた。もし火が肉欲の燃え上がりを、或いは超越的な輝きを(『天国編』の炎のように)、或いは地獄における報復の責め苦を、或いは浄化を(『煉獄編』における洗い清める火のように)あらわすことができるなら、火はそれらの様々なモチーフを一度にあらわす必要はないにしても、すべてがある瞬間において結びつくこともあり得る。

 

 例えば、セックスに飢えた青年が想像した、火災のビルに女性と閉じこめられる男の陰惨な話が思い起こされる。彼女は恐怖で気を失ってしまう——男は今生の最後の行為として女性に襲いかかろうとするが、そのとき床が崩れ落ち、二人の身体はともに炎のなかに投げ込まれるのである。最初は道徳的な違反を導き、次にはその意図を出し抜いた状況そのものが、二人をともに焼きつくす炎のイメージによって、最終的な「超越的」レベルを可能にしている。

 

 ダンテの『地獄編』で度々注意を惹くのは、「情念の風」であるとか「情念の突風」といったメタファーが実現される場面である。『地獄編』では、肉欲の罪は地獄に荒れ狂う風に永遠にさらされるものとして描かれているので、地上での情念は地獄では苦しみ(パッションのもう一つの意味である)のイメージになる。しかし、ここには更なる両義性がないだろうか。セミラミス、クレオパトラ、ヘレン、アキレス、パリス、トリスタンといった、一人きりの呪われた恋人たちをあげた後で、一緒に渦に巻き込まれた恋人として、ダンテはパオロとフランチェスカを挙げている。彼らと話そうとすると、「欲望に駆られた鳩のように」彼らはやってくる。そして、フランチェスカが恋人と罪に落ちたときのことを悲しげに語ると、ダンテは「私は憐れみのあまり死なんとするかのように気を失い、死したる身体が墜ちるように崩れ落ちた」と言う。

 

 ダンテがウェヌスのしるしのもと生まれたと自ら主張していたことを思い起こすなら、罪ある恋人たちへの同一化は道徳的に正しい形に翻訳されているが、崩れ落ちたことには、恋人たちと同じ違反のイメージ上の対応を見てとれないだろうか。少なくとも、気を失うことは彼の特殊な感受性を示している。(結局のところ、彼はいまだ地獄にいるのであり、三つの領域を進んでいくことは、彼の個人的な道徳的知的進歩を示してもいる。)更に一歩進んで、感受性の表現が特殊な共感の形式をとると、イメージは同じ「落下」を「超越的に」表現できると主張されよう。

 

 犠牲の王というキリストの神秘では、犠牲者かつ勝利者というキリストの二重の役割に撞着語法の原理は明らかである。悲劇的なスケープゴートへの同一化は、距離を置いた断片的なものから、直接的で全体的なものにまで様々な範囲にわたる。アテネで犯罪者が死の宣告を受けたときは、即座に処刑される代わりに、神々を讃える場合であるとか、生け贄によって神の怒りを静めねばならないときまで捕らえておかれた。囚人は<カサルマ>と呼ばれたが、それは儀式によって清浄になっていないものの名で、浄化と同じ語源であり、医学的な意味と、アリストテレスが悲劇のカタルシス効果を論じる際に用いた意味とがある。公的に奉納される対象が聖なるものでありかつ忌まわしいものであるという両義性は、全世界の罪を担う者というルターによる過激なキリストのとらえ方と驚くほど類似性がある。「あらゆる預言者が認めたように」と『ガラテヤの信徒への手紙』の注釈で彼は言っている、「キリストは世界中で匹敵する者がいない最大の略奪者、姦通者、泥棒、教会冒涜者等々であろう」と。更に、「神は唯一の子をこの世に遣わされ、そのすべての罪を彼に負わせて言われた『お前は神を否認したペテロであり、迫害者、冒涜者、野獣であるパウロであり、姦通者ダビデであり、エデンの園で林檎を食べたものであり、十字架にはり付けにされる泥棒であり、この世のあらゆる罪に関わったものである。』と」(レオ・シェストフの『キルケゴールと実存哲学』から翻訳引用した。)徹底的な論理性によって、ルターはここで、神−人間であるからには、人類のすべての罪を担う測り知れぬほどの最悪の犯罪者でなければならないという結論を導き出した。こうなると、彼は果たしてインク壺を悪魔に投げつけたのか、普遍的<カサルマ>として実直なまでに人類の病を引き受けたこのキリスト像に投げつけたのかいぶかしく思われ始めるのである。

*1:※我々はここで、「純粋な説得」の観念で導かれたのと同じ進行を辿っていないだろうか。そこでは、絶対においては、説得の三つの要素(語り手、言葉、聞き手)が「無時間的な」形式において、三位一体の同時性として共存することが認められた。そして、説得のパターンが時間のなかで永続化されるには、ある種の干渉が必要とされることを知った。ここで我々が見ているのは、卓越したものとの同一化によって得られる高揚、「向上」である。こうした「趨勢」は、いまある場所に止まり続けることによって旅への期待を保ち続ける人物のように、始まりに立つ姿勢としては、ある種の<固定化>でもある。