ケネス・バーク『動機の修辞学』 69

...   9.究極的同一化

 

 『宗教的経験の諸相』の神秘主義の章で、ウィリアム・ジェイムズは神秘的な高揚という稀な瞬間を証言し、神秘的状況を記述しようとした数多くの記事を広く引用している。この本を終わるに当たり、そこから抜粋し、つみ取ったものを並べることで、バッカス賛歌風に散漫で、個々の証言に公正とはいかないにしても、神秘的状態という経験の肖像を合成することとなろう。

 

 「大きな力によって掴まれ、捕らえられた」ように感じる・・・「予言、自動記述、霊媒的神懸かり」・・・「生まれ変わり」「天国への扉が開いた」かのような・・・「強い魅了」・・・「恍惚」・・・「奇妙な駆り立てる力」・・・「永遠の内的な知らせ」・・・「以前にもここにいた」という感覚・・・個人性が「限りない存在のなかに溶け込み消え去っていく」かのような状態・・・「死がほとんど笑うべき不可能である」かに思われる状態・・・「見ているすべてに意味があるという内的感覚」・・・「言いあらわしようのない不安」・・・「空間、時間、感覚、経験の非常に多くの要因が徐々にしかし速やかに消え去っていく」・・・「現在がいかに過去によって押し出され、空虚な未来によって吸い取られているか」という洞察・・・「『いま』が剥離し続ける」・・・「こつさえつかめれば、『自分の唇にキスをし、一人で楽しめる』とそれは言う」・・・「麻酔による啓示は、避けられない連続性の渦としてあらわれる存在の開かれた秘密、太古からの神秘に人間を導き入れるものである」・・・「私は存在の意味を知っているし、これまでもわかっていた。宇宙の正常な中心は——魂の驚異であり確かさでもある——理性の声では名づけることができず、麻酔による啓示だけがあらわにすることができる」・・・「提示することはできないが、争う余地のない神の確かさ」を感じ取る感覚・・・「無限の力をもつ一者と無限の平安をもつその精神」・・・「こうした熱狂的な経験において、通常は意識の背景に常にあるもの(自己)と前景の対象とを仲介する調節器が消え去る」・・・「巨大であり雄大な、不滅の、宇宙発生の夢想・・・神的な瞬間、忘我の時間、そのとき我々の思考は世界から世界へと飛び渡り、偉大なる謎を洞察し、大洋の、青空の澄み切った限りのない呼吸のように、広大で、静穏で、深い呼吸をする」・・・「抑えられない直感」・・・「透明な夏の午後。地上で論議されたすべてのことが消え去り、平安と知識とが速やかに生じ私の周囲に広がっていく」・・・「狩人の手の鎖につながれた犬のように、事物のすべての集積、あらゆる歴史と時間における、どれ程些細な束の間の出来事であろうとすべてをまとめ上げる目に見えない糸、神の手がかりをとらえる魂の眼」・・・「光の暖かな熱に浸っている感じがする、言い様のないほど強い平和と喜びと確かさの内的感覚」・・・「身体を乗り越える感覚があり、私の周りの情景がより明らかに、以前よりも近くなり、輝きの中心にいるかのようである」・・・「神の無限の大洋に浸っている」・・・「炎が私のなかにあるのがわかる」・・・「言いあらわせない知的輝きに伴う、或いは直接それに続く歓喜の、巨大な喜びの感覚」・・・「個人と神との試験的な融合」・・・「予言から発する光によって照らされる」・・・「神への完全な吸収」・・・「いかなる被造物も近づくことができないような、巨大で果てしのない砂漠で、空漠たる深い孤独のうちにあり、砂漠が馥郁たるものであればあるほど、孤独は深まっていく。この知恵の深淵のなかで、魂は愛を含む泉を飲むことで成長する」・・・「<忘我>或いは恍惚」・・・「麻酔状態」・・・「習慣的忘我」・・・魂は「美徳によって輝き、超自然的な贈物によって輝く」・・・「酔いの慰め」・・・「無敵の勇気で、神からの苦難を、魂が見慣れぬ苦悩にとらわれることを待ち望み——苦しみに満足することがない」・・・「この崇高なる頂」・・・「小ささから広大さに・・・不安から安心に移るかのような」・・・デュオニュソスについて述べるジェイムズ、「輝きを<越え>、本質を<越え>、崇高さを<越え>、名づけうる<すべてを越えた>もの」・・・

 

 神秘的な状態が超自然的原因によるとしても、身体になんらかのあらわれを期待してしかるべきである。通常は、行動の際の神経組織は組織だった構造をとっており、主要な目的の実行のために各機能の従属が必要とされる。子供が歩くのを学ぶ際に、様々な可能性のなかで、蹴りつけようという衝動を抑制しなければならないように、ある衝動の表現は他の衝動を抑圧することで可能となる。もしそうなら(シェリントンのような神経学者が語っているように)、身体的なレベルにおいてさえ、「自由の侵害」、「内的矛盾」という生理学的状態が存在するだろう。不調和こそが規範となろう。しかしながら、もし不調和を越え、神経が組織としてはまったく働かなくなり、あらゆる神経衝動が「それぞれに輝く」なら(キーツギリシャの壺はその中途段階、探求の<始まり>に止まっている)、抑圧を必要とするあからさまな行為を欠いた、全体的な「活性化」が存在しうることになろう。「矛盾する」契機が同時に存在できることになる。

 

 我々の通常の知識は感覚を通じて入ってくるので、こうした異常な感覚の状態も知識として感じられる。神秘家は、自分の経験が「認識に関する」ものであり、論理的な矛盾を越えた「真理」を告げ、従って撞着語法によってもっともよく表現されると強く確信することになろう。実際、どうしてそれが「知識」でないことがあろうか。というのも、新たな果物の味が知識であるなら、心の外にあるなにかからの報告、究極的で唯一の根拠とのコミュニケーションという珍しくも幸運な身体的状態を経験することも知識であろう。

 

 神秘主義とその「残存物」を考えるとき、できる限り自然主義的な言葉で扱おうとするべきである。そこには、神経学、言語学、「社会神秘的解釈」による説明が含まれるだろう。多神論に根づいたものではなく、卓越した超自然的、超人格的創造主との真の結合を成し遂げた神秘家がいるとしても、我々は方法に則った考察によって示せる自然的な要素を探そうとするべきである。というのも、神学者が言うように、「聖別化の恩寵」が「自然」を通じて働くなら、純粋に自然的な動機をより正確に識別し位置づけるほど、それ以上の「神的な啓示」に関する議論が意味をもつことになるからである。特に、文学作品における神秘的モチーフを考えるとき、あらゆる努力を払って言語、神経組織、社会的位階の「高位」について斟酌すべきである。

 

 しかしながら、ジェイムズの一覧を見て、神秘家の啓示を確かなものだと信じたとしても、神秘主義やその「残存物」の他にも、ドラッグ、病気、犯罪、悪魔によって刺激され呼び起こされる多くの幻想的欲望が神秘主義の代用、<模造品>として存在することは認めねばならない。

 

 実際問題として言えば、カルトの信者たちは魔的なものとコミュニケーションして<いる>。手段が目的となり、それ以外のすべてを排除しようとするなら、人間はそれに向けて変容し、神秘的交感と同じように、自身を普遍的な目的、包括的で単一の意図と同一化するだろう。神をもち、神のなかに自らを失うことができる。彼は心を奪われ、うっとりとし、我を忘れる。そして、こうした神秘主義の代用を検証するには、既に言ったように、手段が目的に変化していないか見ることにある。スピードの心酔者は、スピードをスピードのためだけに、スピードの法悦と苦悶だけを望み、戦争から国に戻るアラビアのロレンスのように、オートバイで田舎道を突っ走り——歩行者を避けようとして、自ら命を落とす。彼の忘我はスピードの神秘主義によるものだっただろう。どんな欲求不満や矛盾に苦しめられていたにしろ、オートバイという自由な表現の場ではそれを乗りこなし、従えて走っていたのである。

 

 こうした<模造品>は数多くある。性の神秘主義があり、性が他を圧する目的となり、他の動機は従属的なものとしてまとめられる。金銭、犯罪、ドラッグの神秘主義があり——生の手段を魔的な目的に変える数多くの刺激がある。

 

 かくして、戦争の神秘主義も存在する。彼らにとって戦争は使命であり、大虐殺は心を慰める考えであり、殺人の専門家として殺戮に参加できない限り、内的な葛藤に傷つけられる。虐殺は彼らにとっては苦行の一種である。指導者としては、友人たちに政府とうまい取引をさせようとする単なる「出世主義者」ではない。彼らは献身的な、神秘的兵士であり——殺害は彼らの天職なのである。彼らはどうなっているのだろうか。

 

 大虐殺という考えに慰めを見いだす。序列がはっきりとあらわされること、禁欲的で厳しい訓練、異なった部隊が行進という共通の行為によって得る一体感、敬虔なる観想によって、パレードを、階級順に整然と墓石の並べられる軍の墓所のように、静的で「永遠な」ものと見て取ることを愛する。

 

 彼らの動機が位階的に敷衍され、大きな力をもつ新兵器によって力を得たとき、<そうした>熱狂はどうなるのだろうか。こうした静かに深いところに潜む恐怖についてなにも知らない小役人や下っ端ジャーナリストのなかで、こうした熱狂が次第に解き放たれ、彼らが毎日の発言や官僚的な小細工によって悪意を積みかさね、世界中に行きわたらせていったらどういうことになるだろうか。

 

 神秘主義は珍しいものではない。純粋な状態に達することが珍しいのである。堂々とした、或いは品のあるシンボリズムで、その世俗的な類似物が生じることも珍しい。しかし、神秘主義の必要、切望は至る所にある。そして、位階によってその必要は更に強まる。

 

 位階において、神秘主義は様々な擬態をとりうる。自然、社会、言語、分業——そのいずれからも位階的動機が不可避的に発達する。神秘的解釈によれば、或いは少なくとも「社会神秘的解釈」によると、位階には「神的なもの」の条件、「神秘」への刺激が存在する。

 

 しかし、良かれ悪しかれ、位階の神秘は永遠に我々と共にあるのであるから、修辞学の学徒である我々は、幻滅と喜びともども、この魅了の有効範囲を精査することとしよう。そして、最後に、我々に関わるすべて、永久に我々を刺激し続ける動機は、いかに断片的なものであろうと、普遍的虐殺ではなく普遍的秩序という考えに究極的には同一化するのだと考えようではないか——アリストテレス形而上学で対称をなす修辞学と弁証法では、あらゆる存在は価値を増していく鎖、梯子、ピラミッド状に位階をもって配列されており、それぞれの種は自らの種の<完成>を目指し、次の段階に向かうのであるが、すべては頂点にいる愛すべき指針であり名誉である神、あらゆる欲望の終結に向けて進もうとするのである。