ブラッドリー『仮象と実在』 191

第二十五章 善

 

[善と悪とその程度は、幻影ではないが、いまだ現象である。]

 

 前の章で、私は、簡単にではあるが、悪の存在は、絶対に対する反論の根拠をもたらすわけではないことを示そうとしてきた。悪と善は幻影ではないが、現象であるのはほぼ確かである。それらは一面的なものであり、それぞれは全体のなかでは覆り、姿を変える。前章で議論したので、我々はその立場や価値についてより正しくその価値を認められるだろう。真理と誤りのように、善と悪も絶対的な対立ではない。というのも、ある範囲、ある仕方においては、完全性はあらゆるところに実現しているからである。他方において、程度の相違はきわめて重要である。より低次なものと高次なもののあいだにあり、分け隔てる距離は、完全な実在の観念によって測られる。低次なものは、完全なものとなるために、その本性をより全体的に変えようとしなければならないだろう。そしてより高次なもの――低次なものが到達に失敗し、対立しさえする――の観点から見るなら、低次の真や善は単なる間違いと悪になる。絶対的なものは細部にわたって完璧であり、等しく善であり真である。しかし、別の側面から見ると、よりよいものとより真であるもの、あらゆる程度と実在の段階を区別することは本質的なことである。それらは内在する完璧さに浸透するあらゆる行動によって形作られ、正当化される。

 

 この二種類の原則によって我々は不安を抱くこともなく、現象の多様な世界に取り組むことができる。しかし、この著作においては、私は単に一般的な見解を擁護するだけに努めよう。全体的なものと善に関する特殊なものだけでは、私は絶対のいかなる側面も完全に扱おうとすることはできない。道徳や宗教に究極的な真理を求めるのは共通の偏見で、おそらく不当な場所を与えるだけとなろう。しかし、そうであっても、その問題のある特徴には触れることができよう。私はそれを主として、我々の教義に対する反論として主張されがちなものとして、扱わねばならない。(1)

 

*1

*1:(1)私の1876年の著作『倫理学研究』、それは主として私の見解を述べたものだが、多くの点についてさらに進んだ議論も含まれている。快、欲望、意志についての私の見方は、『マインド』49号を参照のこと。前の著作は、書き直そうとしてはいないが、再版されるかもしれない。他の本は、それらが扱っている迷信がほとんど衰退してしまっているが、この問題を自由に扱うことは私自身の楽しみでもあった。