ケネス・バーク『宗教の修辞学』1

【『宗教の修辞学』はおそらく3分の2程度しか訳していない。中盤からアウグスティヌスの徹底的なクローズド・リーディングになり、あまり訳している意味を見いだせなくなったからである。前半部は面白い。】

 

序 神学とロゴロジーについて

 

 「神学」を「神に関する言葉」と定義するなら、「ロゴロジー」は「言葉に関する言葉」を意味することとなろう。そうすると、必然的に言語的な性質をもつ宗教的教義を考察することは更なる可能性を示唆する。二つの領域の間には実りある類似関係が存在するかもしれない。かくして、偉大な神学者たちが「神」の本性について語った言葉は、必要な変更を加えれば、世俗的な言葉の本性についての観察として適用することができる。

 

 人間が「典型的なシンボルを使用する動物」である限り、人間の神性についての考察が言語化の原理をあらわしていることは驚くべきことではない。そして、「神」が形式的な原理である限りにおいて、「神」に関する徹底した言明は、その特徴として形式性をあらわにするものだと予想されよう。聖書の、人間神のイメージにおいてつくられたという宣言は、正反対の、人間のイメージにおいて考える擬人化の傾向について我々を慎重にする。しかし、この本の探求は二つの立場の中間を行き、宗教的な教義が言語的なものである限り、必然的に、言語化の本性を例証するだろうということを主張するに過ぎない。そして、宗教的な教義が徹底的なものである限り、それが例証する言語的な原理もまたそれに従って徹底的なものであるだろう。

 

 それゆえ、「『神』の本性」に関する言明を分析することは、「『理性』の本性」についての言明を分析するのと同じく、言語の本性に関する観察として、その形式性において行なうことが可能であろう。そして、そうした神学と「ロゴロジー」の領域との照応は、「神」が現実に存在していようといまいと関係がない。というのも、「神」と呼ばれるものが、ある用語体系の主要な語としてとは別に実在するにしろしないにしろ、「神に関する」語は、語としての性質をあらわにしているはずだからである。

 

 実在の問題に神学的に、あるいは無神論の立場から、また懐疑論的に答えるのは、我々の企図するところ、能力を超えている。この探求は、神学の神学としての厳正さについてなんらかの判断を下そうというものではない。我々の目的は、単に、神学的原理が言語の本性に光を当てる世俗的類似物としていかに有用であり得るかを示すことにある。

 

 聖アウグスティヌスは、神についての三位一体的な観念に到達するまでに、あらゆる自然現象に超自然的な原理のあらわれを見てとった。いかに世俗的なものであっても、あらゆる三幅対は、彼にとっては三位一体のもう一つのあらわれだった。我々の目的には、このアナロジーだけで充分満足できる。アウグスティヌスに賛成するか反対するか決める必要はない。我々の目的には、超自然的な三位一体が、ロジェが三つ組み、三つ揃い、三つ葉の、三角形、三つ叉、第三の構え、三韻句法、トリオ、三の札、三項、三執政等々として集めたもののすべてにあらわれているかいないかは関係がない。我々に必要なのは、そのすべてが三性のもと類推に基づいて分類されうることに留意するだけである。しかしながら、アウグスティヌスを研究する際に示そうとすることになるだろうが、彼が前提としたような聖なる三位一体が存在するにしろしないにしろ、彼の神の観念に三位一体のパターンがあることは、彼の心理学、世俗的な意味での心理学ということにはなるが、それにおいては根源的な問題として考えねばならない。

 

 単一なるものとしての神の概念は、単一の語句のもとに多様な個物をまとめ上げる名称や称号の本性に言語的な類似物を見いだせる(本の題名や、人物あるいは政治的運動の名前のように)。こうした要約的な語は、その機能からいって「神-語」である。それでは、そうした語と「統一的な」語句のもとに分類されうる無数の細部との関係はどのようなものなのだろうか。要約的な語、包括的な名前や称号は、幾分、「精神」が「物質を超越する」と言われるような意味合いで、そこに含まれる多くの細部を「超越している」と言えないだろうか。この疑問は、神学の研究が「ロゴロジー」に適用される際の方法を示している。

 

 短い序論、「一般的語とロゴスとしての語について」は問題を一般的に考察する。二番目のエッセイ「聖アウグスティヌスの『告白』における言語行動について」では、異教の修辞学の教師から(彼が言うところの「言葉の商人」venditor verborum)神の言葉の伝道者となったアウグスティヌスの発展を分析する。ここでは、詳細なテキスト分析という回り道をとる。『告白』が『創世記』についての話題で終わっているのに対応して、三つ目のエッセイは同じ方向をとる。しかしながら、我々の考え方はそのまま維持し、アウグスティヌス流の「時間」と「永遠」との差異を、言語学的に、その各語の物質性を通じて拡がっていく文と、文の単一で、非物質的な本質あるいは意味との相違として扱う(このアナロジーは、偶然にも、アウグスティヌス自身が指摘したものである)。

 

 最後のエッセイ「創世記の最初の三章について」は一般的な考察とテキスト分析とを結びつける。この素晴らしい物語を一語一語現代の進化論の理論と調和させる神学的な試みがいかに困難なものだろうと、「ロゴロジー」の目的にとってはまさに完璧な事例である。そこで、我々は「契約」という重要な問題について洞察を示すホッブスの『リヴァイアサン』を要約した「『秩序』という観念に含まれる語の同語反復的な循環」を含めて、利用できる限りのものを利用し、土壇場の数節でいくつかの点に決着をつけようとした。

 

 形式的に言うと、この探求は、叙述的形式と論理的形式とが合流する(あるいは分岐し始める)地点、「先行権」についての純粋に時間的な原理と純粋に論理的な原理とが差異化し始める微妙な地点、あらゆる道徳的認可の論理的な基盤である神と、自然的、時間的な秩序の源である神とが、神学的な焦点として重なり合っている部分について研究しようとするものである。「秩序」という語をめぐって循環する図式は、それらをめぐる用語群が互いに包含し合う「方向を欠いた」場に行き着く。創世記の始めにある創造の神話は、そうした相互作用する動機づけの原理が不可逆的な叙述の系列に翻訳されるときの範型として分析される。

 

 そして最後に、ロゴロジーは、神学者たちが提示するような広範囲にわたる究極的な保証や、あるいは同じく広範囲にわたる究極的な脅威について読者になんらかの手がかりを与えることは期待できないが、少なくともこの研究から引きだされる一つの重要な「モラル」が存在する。それは、我々が示そうと努める、秩序の観念に本来備わった犠牲の原理を強調することによって引きだされるものである。創世記の創造神話で我々の述べたことが正しいなら、現代世界は二つの強力な世界秩序を形づくる帝国が強迫的な循環のなかにあり、自殺的なまでに軍備を拡張し、対峙し合っていることを恐れなければならない。支配というものが常にそうであるように、どちらも不安に取り巻かれているに違いない。そして、犠牲による「治療的な」役割を維持すべく、どちらも多くの難題の責めを他方に押しつける強い必要を感じていることは明らかであり、相手方の一党が排除されれば、すべての政治的不調和(秩序につきもののすべての不調和)が排除されるのだと確信したがっている。

 要約すると、

 

ここにあるのは、秩序と犠牲を融合させた

歴史の鉄の法則の

諸段階

 

秩序が罪を生み

(誰が戒律を守ることができよう)

罪は贖罪を必要とする

(誰が浄化されずにおれよう)

贖罪は贖い主を必要とする

(つまり、犠牲である!)

 

罪を通じ

犠牲へと至る

秩序

(その故に、殺害の崇拝)

 

 こうした道筋に沿って、著者は、現在の敵対する国際間における人間の政治性を重視することから、すべての人間が共通にもつ弱点や苦境(「シンボルを使用する動物」である限り)を「ロゴロジー的に」肯定することに転回したいと思っている。

 

 補遺の「天上の序曲」について。これはある種、古代ギリシャの劇場で、伝統的に荘重な悲劇三部作の後で演じられたサテュロス劇を思ってつくられた。主と悪魔との「純粋に想像的な」対話は、本来、前三章で発展させた「ロゴロジー」を軽い形で要約することを意図したものである。

 

 この「軽さ」が「軽率さ」に思われないよう願おう。実際には、一度書き始めてしまうと予想もしなかった展開で、奇想にのっとられがちだった。多分、この対話においては悪魔が穏やかな性格をもっているので、ただでさえ個人的には反対のことでも容易に言えてしまう対話ということもあって、作者は幾分羽目を外してしまったのだろう。

 

 読者は、この対話は神学の原理を例示しようとするものではなく、純粋に世俗的な事柄であるロゴロジーの原理を示そうとしているのだということを心にとめておくべきである。基本的には、それは、人間の諸動機の研究においては、単純化された実験室の実験の語彙よりはむしろ(神学や形而上学でのような)超越の複雑な理論をもって始めるべきだという立場を支持することが意図されている。