ブラッドリー『仮象と実在』 192

[善とはなにか。]

 

 我々は一般的に、欲望を満足させるものとして善について語る。それは我々が是認し、満足の情をもって休らうことができる。あるいは、お望みなら、価値と同じものとして語ることもできる。それはまた、我々が真理に見いだす要素も含まれている。真理と善とはそれぞれ照応しあい、あるいはむしろ、観念と存在とのように同一である。真理において我々は完璧なもののあらわれとしての存在からはじめ、実際そこになければならないものを観念的に完全なものとし続けることになる。他方において、善においては、我々は完全なものの観念からはじめ、同じ観念を存在するものにつくり、見いだしていく。そして、その観念は欲望されるものととらえられる。善は欲望される観念的内容の存在において検証され、示唆される観念によって事実が測られることが含まれている。それゆえ、善と真理はどちらも観念と存在との分離を含み、時間における過程を有している。それゆえ、どちらも現象であり、実在の一側面しかもっていない。(1)

 

*1

*1:(1)主として、善は欲望を満足させねばならないので、真なるものは善であり、全体として、我々は必然的により完全なものを見いだすように求める。主として、善であるものは真であり、欲せられた観念は一般的に、より完璧でより実在だからである。しかし、これら諸側面の関係は次の章で見ることになろう。