ケネス・バーク『宗教の修辞学』 3

第一のアナロジー

 

 「一般的な語」(低次な)と「ロゴスとしての語」(大文字の)との第一のアナロジーについて、いくつかの主要なテキストをあげると次のようになる。

 

 「ヨハネによる福音書」の冒頭、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ヨハネ1:14、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」黙示録19:12-13、「この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。・・・その名は『神の言葉』と呼ばれた。」ヨハネの手紙1,5:7、「天に記されているのは三者で、父と言葉と精霊です。この三者は一致しています。」

 

 異端、セクト、宗派についての事典で、ブラントは、ヨハネのロゴスに関する教義を否定し、その結果ヨハネの著作自体を完全に排除した教派(アロゴス派と呼ばれる)について述べている。同じ事典には、アウグスティヌスの異端についての著作から次のような引用がされている。「Alogi sic vocantur-quia Deum Verbum recipere noluerunt,Johannis Evangelium respuentes.」我々の現在の立場からして、アロゴス派は破門としておこう————というのも、ロゴスとしての言葉について神学上の教義がなく、「ヨハネによる福音書が唾棄されるべきもの」となるなら、我々のロゴロジーについての仕事は始まりにおいて止まってしまうことになるのは明らかだからである。

 

 しかし、上記のテキストがなくても、旧約聖書にも同じような箇所が認められる。創世記1:3の命令による創造(「神は言われた、光あれ」)。あるいは、詩篇33:9,「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。」同様に、いかに異なった解釈がなされていようと、「神の言葉が創造の働きをしたことはバビロニア、エジプト、インドの宇宙創生論にも見いだされる」。*

 

 

*1

 

 明らかに、創世記における神の第一の名は言葉にまつわる意味をもっており、「エロヒムElohim」はEl(強さ、あるいは強きものを意味する)とalah(神に誓うこと、誓いによって自らを拘束すること)からつくられていると言われており、imは「ケルビム」や「セルビム」と同じように文法的に複数をあらわす。

 

 英語の「ゴッド」でさえも、言葉との類推から発達してきたと思われる。明らかに、嘆願する、懇願するという意味の動詞の過去分詞であるサンスクリットのkutaと関係している。

 

 表面的に見ても、マルティン・ブーバーの「我-汝の関係」は、同じように強い言語的な要素が認められ、ある種の誓願に含まれる人格性と、それに関わる文法的区別が含まれている。

 

 言語的原理は聖アンセルムの神学にある信仰、理解、幻視(fides,intellectus,contemplatio)という三段階の弁証法にも明らかに認められる。彼が言うところでは、人は語られることを通じて(ex auditu)信仰を学ぶ。実際、聖人が神についての真理を直感的に見て取る(「幻視」contemplatioによって)という神学の考え方がどのように考えられようと、聖アンセルムがここで言及しているのは、教義や信条は言葉による教訓(「福音」という言葉がまさに示しているように)によって形づくられ、教えられるという明らかな事実である。また、アンセルムは疑いなく「ローマの信徒への手紙」10:17,「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」という一節を心にとめていた。

 

 このような例を見てみると、「ロゴス」を厳密に「理性」と同一視する傾向への抵抗を正当化できるように感ずるだろう。新約聖書には約270ほどロゴスという語の用例があるが、大多数は発せられた語という意味で用いられており、その範囲は単なる慣用語法としてから(マタイ15:23「イエスはなにもお答えにならなかった」のような)、「神の言葉」(マルコ7:13)まで広がっている。語が神性に関わる場合であっても、「理性」といったのではあまりに意味が限定されていないだろうか。

 

 いずれにしろ、初期キリスト教教父のエイレナイオス(2世紀後半)は、そうした留保を裏づけてくれる。『ブリタニカ百科事典』の十一版から引用する。

 

彼以前には第四の福音書は教会にとって存在しないも同然だった。エイレナイオスがそれに生命力を与えた。彼のロゴスに関する概念は、哲学者のものでも護教論者のものでもなかった。彼はロゴスを神の「理性」ではなく、第四福音書の作者が述べているように、父なる神が人類への啓示として語る「声」だとした。

 

 

 

 アリウス派は、明らかにこの「声」の原理を文字通りに受け取り、ブラントによれば、「彼らは神の子が唯一ロゴスを授けられたものであり、思考が発言の際の音に先行しなければならない以上、始まりはにあることを確立しようとした」という。

 

 つまり、三位一体の第一格、第二格は、言葉を導く思考と思考を表現する発せられた言葉との関係に等しいこととなろう。そして、思考だけが言葉に先行すると言えるものである限り、そうした厳密なアナロジーは第二格が第一格に時間において遅れていることを含意することとなろう。聖アンセルムが「汝の発する言葉のなかにまさしく汝がいる(in Verbo quo te ipsum dicis)」と言うときには、もちろんアリウス派の結論にはいかないが、思考と発言との関係についての同じような関心を示している。

 

 こうした考察はすべて、ある種の「言語学原理主義」においては、聖書の翻訳が示しているように、ロゴスという語に、注釈者たちはしばしばより哲学的な意味を強調しているにもかかわらず、強い言語的な意味合いをもたせていること(聖書においては「言葉」と翻訳される)を留意させることとなろう。

 

 それ故、この主要なアナロジーには、他のすべてのアナロジーが導き出されるような構造的な要素がある。要約すると、

 経験的な領域で一般的な語について言われることは、神学において神について言われることと顕著な類似性がある。*

 

 

*2



 言語が指し示す四つの領域がある。

 

 第一に自然的なものを指す語がある。これらの用語は事物、物質の働き、生理学的条件、動物性などを含むことになろう。「木」、「太陽」、「犬」、「飢え」、「変化」、「成長」といった語である。これらの語は、たとえ言葉(あるいはシンボル全般)を使用する能力が完全に消滅してしまっても、世界には残るであろう事物、条件、運動などを名づけるものである。

 

 第二に、社会政治的領域にある語がある。社会的関係、法律、正義、不正、規則などの語である。「善」、「正義」、「アメリカ人」、「君主制」、「立ち入り禁止」、「所有権」、「道徳的責務」、「婚姻」、「家督」といった語が属する。

 

 第三に、語に関する語がある。辞書、文法、語源学、文献学、文学批評、修辞学、詩学弁証法の領域で————すべて、私が「ロゴロジー」と呼びたい分野に収まるものだと考えられる。

 

 これら三つの言語秩序は、日常的な経験の世界、語がまずもって適用される経験的領域を覆うに十分なほど幅広いものであるべきだろう。しかし、そう言うためには第四の秩序をもたなければならないことを理解することになる。「超自然的なもの」に対する語である。超自然的なものを信じない人間であっても、純粋に経験的な言語の事実に関する限り、言語は超自然に関するを有していることは認めるだろう。

 

 しかしながら、超自然的な領域が現実に存在することを問うまでもなく仮定したとしても、その領域を論じるためのは、必然的に他の三種類の秩序で使用されている語からアナロジーによって借り受けねばならない。つまり、自然的、社会政治的、言語的秩序のものをである(あるいは、音楽、踊り、絵画、建築、専門化された多様な科学の分野等々のシンボル体系という場合のように、シンボル一般といってもいい)。

 

 超自然は、定義上、「言語に絶した」領域である。そして、言語は、定義上、「言語に絶した」ものの表現には適さない。そこで、超自然的、あるいは「言語に絶した」ものである第四の領域に関する語は、我々が字義通りに語ることのできる、三種の経験的秩序(日常的経験の世界)の語を借りてこなければならない。

 

 『ハドソン・レヴュー』(1958年春)に掲載された私の「詩的動機」から引用する。

 

「神」は定義上、あらゆるシンボル体系を超越しているので、我々は神学でのように、言語は本来「超自然」を字義通りに論じることに適していないことを認めることから始めねばならない。言語は、経験的には、物理的な自然、社会政治的な関係、言語そのものを指し示す語に限定されている。それゆえ、「神」に関する語はすべて、類推によって用いられざるを得ない————神の「力強い御手」(物理的類推)や、「主」あるいは「父」としての神(社会政治的類推)や、「ロゴス」としての神(言語的類推)を語る場合のように。神を「人格」として捉える考え方は、人格が身体をもっている限りにおいては物理的、人格がなんらかの身分にある限りにおいては社会政治的、人格が人間のシンボル使用における多様な働き(言語学的、芸術的、哲学的、科学的、道徳的、実用的)において開花する「理性」を含む限りにおいて言語的類推をもっていると言えるだろう。

 

 

 さて、十分基礎となるところは述べたので、他のアナロジーについてはより手早く見ていくことができよう。

*1:

*『解釈者の聖書』(Nashville:Abingdon Press,1900)I、468、カスバート・A・シンプソン「創世記、その解釈」。

 

*2:

ホメロスでは、「語」をあらわす語はミトスである。ギリシャ後期には、ロゴスに移った。現在行き渡っている神話学の重視は、神話学が思考の単なる形象にあまりに大きな力点を置くゆえに、ロゴロジーによって特に修正される必要がある。ロゴロジー名辞についての強い関心は、正反対にある言語を動機として捉える過度に科学的な見方に赴くことなく、この不足を補おうとするものである。確かに、科学、細菌学、核物理学のシンボル体系は権威者をつくりあげるのに十分ではあるが、もし望むなら、全惑星を破滅させることができるというのは、それ自体、そうした用語法が「正確」であり、社会科学や人文科学が模倣する範型をとっているという証拠とはならない。むしろ、表面的な証拠ではない場所で、我々は探求を続けるべきなのではないだろうか。シンボルを使用する動物の諸動機に含まれるあらゆる象徴的な次元を考慮する必要がある。そして、このテキストは、神学によって与えられるヒントを無視する世俗的な言語理論が、なぜ、神学そのものが「真」であるかどうかに関わりなく、不適切なものとならざるを得ないのかを示そうとしている。