一言一話 98
動物の繁殖の時に、雄は優秀な雌を得んがために狂奔する。そして雄同士は死闘を展開する。W・ディズニーは、その動物映画の中でこういう場面をいくつか私たちに見せてくれた。たとえばカナダ山中の大鹿は、鋭利な角の先で相手を攻撃して傷つける。こうして昼となく夜となく争闘して競争者を斥けたのちに、勝ち残った強い雄が目指す雌のもとに駆けつけて夢の交合を遂げるのだ。つまり、それまでは血と死の場面の連続である。雄はこの争闘でもちろんのこと傷つく。そして血を流すのだ。気の弱い雄は出血したら逃げ出してしまうことだろう。つまり争闘の放棄である。神というか自然はそんな弱い雄の種は保存する必要はないと認定して、たとえ出血しても、それにひるまず次の争闘に勇敢に立向う雄に、適者生存の法則を適用する。つまり血を見れば血を見るほど、たけり狂うくらいな奴の種こそ保存すべきと自然は考える。そこで血を見ると、性が昂進するような傾向を与えたのだ。人はこれをマゾヒズムといって、十九世紀のマゾッホ博士が発見者みたいにいい、特殊な例のようにいうが、実は生物の種の保存上の重要な要素であって、生物たるものは多かれ少なかれこの傾向を持っているのだ。
マゾヒズムの逆のものにサディズムがあるが、これも同様に説明がつくのであって、その血まみれになって雌のもとに駆けつけて交合を挑むような雄にこそ、雌たるものは愛を感じないと自然が求めているような優秀な種の保存はなし得ない。そこで自然は血まみれの度が物凄い雄の姿に愛着を感じるように、雌にサディズムの傾向を与えたのである。
牧歌的な時代の性議論だが、それ以前に私などは血と性欲とがまったく結びつかない。