ブラッドリー『仮象と実在』 194

[快そのものは善ではない。]

 

 この理由から、我々は快そのものが善であると認めることはできない。善は快いものであり、快がますに従ってよりよいものとなる。また、「そのような事柄」を取りのけておくなら、快は一般的にいって善である。というのも、快は自然に欲望され、全体として善になるだろうからである。しかし快のすべてが欲望の満足であり、常に欲望や承認を得なければならないとは主張するべきではない。というのも、観念が不在であることもあるので、快は正しく善であるとはいえない場合もあるからである。

 

 また、快そのままと善との同一視については、躊躇なく反対することができる。そうした観点は快の側面を切り離し、それに価値のあるもの以外をすべて否定するものである。よい快いものとよりよいものがひとつだと主張されるなら、この立場は変わるだろう。というのも、快は不調和でないすべてと結びつき、より十全な調和のなかに不調和が融合されるので、当然より高次の個物はより心地よいものとなるからである。(1)そして我々は、快を完璧についての観念の本質的な要素に加えている(第二十章)。しかし、このことから、宇宙のなかで快を除いたなにものも善ではなく、最終的にこの側面を見て、その他すべてが単なる手段であるとはとても言えないだろう。あらゆるものがひとつの全体のなかで関連しあっているところでは、どの要素でも抽象でき、孤立化することができる。それを除けば、容易に、他のすべてが不完全で価値のないことが証明できる。そしてそれを付け加えれば、それらは再び実在と価値を取り戻すことを示すことができよう。それゆえ、どの要素についても、最終的には、他のすべてのために存在すると結論することができる。しかし、このことから、絶対的かつ盲目的に、世界のあるひとつの側面が唯一善だと論じるのは、非論理的なのは確かである。一般的である限りにおいて許されるが、それはあまりに狭隘な視点で、一面的な誤りになる。そして快以外のなにかが善であると否認されるなら、快楽主義は決定的な拒否に出会うことになるに違いない。

 

*1

 

 あるものが常に望まれるのは、最初の快であったから、あるいは別の見方をすれば、我々がそれを欲するからではないだろうか。(1)同じ疑問は、欲望されるものと善との関係についても言える。私が考えざるを得ないからそれは真なのか、それが真であるから考えざるを得ないのか。繰り返せば、私がそうすべきであるからそれは正しいのか、「なぜなら」というのは正反対の方向に向いているだけなのか。美しい対象は、私に影響した結果そう感じられるのか、あるいは私の感情がこの美の結果なのだろうか。いずれの場合でも、まずはじめにあまりに厳正な分離を行い、それに基づいた疑問は、ジレンマで我々を脅かすことになる。我々はそれぞれを事実として、仮定されたものとして扱うが、それらは少なくとも一方を切り離したときには存在を欠いていることもあろう。善が欲望の満足であるなら、欲望はその条件ととることができよう。しかし、他方において、なんらかの意味ですでに満足を与えてくれたものでなければ欲望されないのかもしれない。すでに見たように、低い次元にあるような場合、快が是認も欲望もされないことは確かである。しかし、善が快から成り立ち、快の帰結だと主張することはまた別のことである。

 

 

*2

 

 一貫した快楽主義が少なくとも言外のうちに否定するのは、欲望の方向が最終的に快以外の何ものにも向かないということである。事実として快であるなにかがあり、それだけの理由で欲望される。それとともにすべての疑問が直ちに出そろうように思われる。しかし、他の出来事同様に、快そのものは、偶然に生じるものではあり得ない。この側面には、理由がないわけはない。それを尋ねると、快が常に我々が完璧、あるいは個物性と呼ぶものとともにあることが見いだされる。しかしもしそうなら、「なぜならという理由」はどちらの場合にもはっきりしているのは確かである。私の見る限り、ある性格が快に必然的なものだということを否定する権利があるなら、同じく快と欲望との関わりを拒否する権利をも持つことになろう。もし一方の共存が単なる偶然で、たまたま隣接しているのなら、同じことがもう一方の側でなぜ起きないことがあろう。しかし、つながりに二つの側面があり、相関的な完璧の程度が快に本質的で、その意味で快の側も完璧の要素だとするなら、即座に快楽主義は、原則として退けられることになる。欲望の対象そのものは、快以上のものを含むことに決して失敗することはない。快やその他の側面が宇宙の単一の目的であるという観念は、擁護されないものとされるに違いない(第二十六章)。おそらくこれは別の形で、快楽主義が真であるとしても、その真理が示されうるような可能な方法などあり得ないと言えるだろう。(1)

 

*3

*1:(1)このことは『マインド』49号でも言及したに違いない。

*2:

(1)以前にはそうではなく、快でもなかったある観念の対象が、事実に対して用いられることで、欲望の対象になる傾向がある。あらゆる観念は抽象において自己を拡大し、その限りにおいて快である。私の心的な状態である快い観念は、対象に転移されうる。我々は常に観念を事実に対して固定したのはなんであるか問わねばならない。それは快であったことがあるのかもしれないし、その対象はいま心地よいものであるのかもしれない。そこに存在するがゆえに、快であることさえあるとは言えないだろうか。こうした問題の議論は心理学的な詳細に及ぶが、ここでは無視することにした。

 

*3:(1)快楽主義が示す知性に向けた姿勢の不完全さについてはすでに注目しておいた(374ページ)。434ページ以下を参照のこと。より詳細にわたる批評は、私の『倫理学研究』また『シジウィック氏の快楽主義』という小冊子参照。『マインド』49号36ページも参照。