ブラッドリー『仮象と実在』 195

[一般的には是認されているが、善は満足させられた意志ではない。]

 

 この間違いの他にも、我々が異議を唱えねばならないもうひとつの教義がある。善と意志の実現を同一視する傾向がある。ある種の仮定の力によって、この結論は、おおざっぱに言えば正しいものとなろう。しかし、この仮定は維持しがたく(第二十六章)、それなしでは結論は成り立ち得ないことを見ることになろう。欲望の満足は、個人によって見いだされもすれば、つくられもしうる。経験を経た存在が快く欲望を満足させるなら、我々はどうしてそれを善と呼ぶことができないのか理解できない。また、明らかに、意志の不在に存在していると思われるので、快は満足させられた感じには限定され得ない。(1)

 

*1

 

 善はよく思うとともにあるということで我々の一般的な見解を表現することができよう。しかし、よく思うというのは最も広い意味でとるべきである。認めるとは満足を感じる観念を持ち、その観念を存在のなかにもち、あるいは想像することにある。現実に、あるいは想像のなかで存在において観念が実現することに失敗すると、その観念は「あるべき」「なるべき」「すべき」ものとなる。道徳の領域まで最小限に認められないばかりではなく、思索や芸術の世界でも同じことである。外的であれ内的であれ、心地よいそしてそれに対応するように思われる観念によって結果が測られるところでは、我々はある意味において、是認されていると言える。そして我々が是認しているところでは、確かに我々は善という結果を見いだしていると言えるだろう。(1)

 

 

*2

 

*1:(1)時間にあっては意志の発達が先行すると付け加えることができよう。意志と思考そのものは主語と対象との区別を含み、苦痛と快はこの区別に先行し、実際それに影響を及ぼす。意志、あるいは自己、あるいは自我における快の独立とは意見を異にし、それらは快の産物であり、快に続くものだと考えている。快や苦痛だけでそれらがつくられるというのは不正確だろう。しかし、それらが常に快への反応としてあるといえばより正確であろう。

*2:

(1)便宜のために、私はよく思うことに欲望が含まれていると仮定したが、ある場合にはこの仮定はほとんど正確とは言えないだろう(404ページ)。しかしよく思うことは常に観念が快であることを含んでいなければならない。この特徴がない、あるいは抽象されている場合、我々にあるのは単なる認知である。認知は常によく思うことになるかもしれないが、観念においてそれらは同一ではない。また事実、認知はよく思うことがないときに可能であると思われる。

 もちろん、我々は常に絶対的によく思うわけではなく、ある観点からそう思う。結果が歓迎せざるものであるときさえ、我々は理論的にはよく思うことがあり得る。そして、いかに悪いものであれ、探していたものが見つかることは、知的な成功であり、その限りにおいてよく思われる。単にこの観点からのみ見た場合、善だということになろう。よく思うことと善とが重なることに対する真の反論は、よく思うことが通常ある程度の反省を含み。抽象的で非個人的な観点からの判断を含むからである。このことから、たとえば、よく思うことはこの限りにおいて、愛と、またある種の善と両立しないことが見て取れる。しかし、よく思うことが発達の低い段階にあり、満足を与えてくれるなにかを見いだすことでしかないなら、反論は消え去る。実際上よく思うことと理論上よく思うこととの関係は、第二十六章でさらに触れることになろう。もちろん、観念がなすべきなにかに関わるところでは、よく思うことは実際的である。