一言一話 100  

 

山の手人種と下町人種

 

 明治政府の下に東京に集った人びとは西洋志向、それもアメリカの影響甚大であった。そのころのアメリカは現在の超大国に伴う文明の爛熟はなく、開拓精神と清教徒的な理想に燃えていたから、日本の武士道と相容れるところがあった。

 禁欲的で華美を嫌い質実を愛した山の手人種の祖先は上京者であった。だから「花のお江戸」にやって来た田舎者のコンプレックスを持っていたにちがいない。

 下町には江戸開府以来住みつき、江戸文化という上方文化とは別種の独特な洗練された文化を三百五十年かかって築き上げた意地の悪い連中がいた。つまり下町の人である。

 山の手に住みついた連中は、これらの「江戸ッ子」に反感を持った。なぜなら山の手の連中は権力階級に属したが、文化的には、どうしてもこの下町の連中に優越感があり「浅黄裏」といった蔑視に現れていることを知っていたからである。

 また下町人種も、山の手の権門に属する連中に強い反感を持っていた。

 私が長じてから、いわゆる下町出身の文化人から、妙な反感を露骨に示され驚くことがしばしばあった。

 だから山の手と下町との対立は、かなり永く続いたので、それが終ったのは戦後で、その対立の解消がそろそろ始まったのが大正の大震災の後であろう。地理的というか生活圏として山の手と下町がゴチャゴチャになり、二つの人種が否応なしに雑居したから、もう二代目となると、意識は消えたといってよかろう。

東京もなかなか複雑である。