ブラッドリー『仮象と実在』 196

[どれだけそれは「望ましい」ものなのか。]

 

 一般的に、善はしばしば望ましいものと同一視される。これは誤解を招くように思われる。というのも、望ましいものとは、望まれるべきもの、望まれねばならぬものを意味するからである。それゆえ、善が善でありながら望まれない、あるいはまた、善ではないなにものかが望まれることも含まれると思われるからである。そして善を一般的にとらえるなら、少なくともその主張は論議を生むものとなる。「望ましい」という語は相対的な善の世界に属し、我々がよりよいまたはより悪いものについて語ることができるときにのみ、明確な意味を持つ。しかし、一般的に善なるものには、厳密に適用されることはなかっただろう。正確には、善であるものを望むと言えるだけのときには、望ましいものではない。(1)

 

*1

 

 善は、本質的に望まれるという意味において、望ましいと呼ばれうる。というのは、欲望は外的な手段ではなく、善の内容であり含まれるもの、少なくともそこから必然的に導き出されるものだからである。欲望のない善はそれにふさわしいものではなくなり、望ましいものとなるだろう(404ページ)。「望ましい」という言葉のこの用い方は、重要な点に注意を向けるが、上記の理由からも、誤解を導くことになろう。少なくとも、一瞬欲望と善とが分離されるのである。

*1:(1)もし快が望むことのできる唯一のものであるなら、そのことから快が望ましい、あるいは唯一の望ましいことであるということにはならないだろう。こうした結論が導き出されるかもしれないが、いずれにしろ直接的にではない。直接的な一歩を踏み出し、論議するべきである。「望ましい」という言葉は本来誤った用い方で、快楽主義的な作家に役立っている。それは「である」から「であるべき」への密かな移行を覆い隠している。