ブラッドリー『仮象と実在』 197

[善は完全の不整合な一面である。]

 

 それでは善の意味を一般的に特定し、そこからその矛盾した性格を強調してみよう。善は完璧ではなく、完璧の一側面に過ぎない。それは自らを超える傾向にあり、それが完成すると、すぐに善ではなくなってしまうだろう。私はそれが不完全であることを示し、善とはなんであるか、それからその本質にある自己矛盾を簡単に指摘しようと思う。

 

 もし善がなにかを知ろうとするなら、常にそれはそれ自体ではないなにかの形容である。美、真理、快、感覚はすべて善なるものである。我々はそれらを望み、それらはすべて我々を賞賛へと導くようなタイプあるいは「規範」に従っている。それゆえ、ある意味において、それらはすべて善のもとにあり、善に含まれている。しかし、他方において、善がその領域から払底してしまったらと尋ねると、答えは違ったものとならざるを得ない。というのも、それぞれが独自の性格を持っているからである。そして、善となるためには、宇宙の他の側面もまた善でなければならない。善そのものは、明らかに、事物の全体ほど広範囲にわたるものではない。善の本質について調べていくと、すぐに同じ結論に至らざるを得ない。というのも、それは明らかに食い違っており、現象であり実在ではないからである。善は観念と存在との区別を含み、この分裂は時間の経過によって永続的に修復され、再建されることになる。

 

 こうした過程は、善という存在の内奥に含まれている。端的に言って、満足された欲望とは自らと一貫していない。というのも、満足された限り、それは欲望ではないからである。そして、欲望である限り、少なくとも部分的には不満足な部分が残されているに違いない。そして、我々が持てる以外のものを欲しないというなら、よく思うことが欲望を排除するなら、変化と戦う理想的な性格の永続性をもつことになる。しかし、いずれにしても、そのことは別としても、そこにはそれと同一視されるような事実とは異なる観念を暗示するものが含まれている。それらの特徴は必然的であり、それぞれ他と整合性をもたない。観念と存在との差違の解決は善によって要求されているが、達成されないままである実際、その達成は善の本質を破壊するだろうし、それゆえ善そのものが不完全で自己超越的なものとなる。融合することによって別のより高次の性格になり、完璧になる。