ケネス・バーク『宗教の修辞学』 7

第五のアナロジー

 

 第五のアナロジーは「時間」と「永遠」に関わっており、テキストとして聖アウグスティヌスの『告白』からの引用を使うことができる(第四巻第十章)。移ろいゆくものについて論じて、アウグスティヌスは言う。

 

これはあなたがあらゆるものに与えられた限界である。あらゆるものは、同時に全体として存在するのではなく、過ぎ去り、つぎに来ることによって、すべてが相集まって、その全体である宇宙を形成するのである。じじつ、わたしたちの談話も、意味のある音声によって、同じような仕方で形成される。わたしたちの談話は、一つの言葉がその一部分を聞かせたのち、他の言葉に引き継ぐように消え去らないなら、全体として成立しないであろう。(服部英次郎訳)

 

 

 

 文における語の継起が「時間的なもの」と類比的なものとされている。しかし、文の意味本質であり、文のいかなる部分にも限定されず、文全体に浸透し、生気を吹き込むある種の固定した意義あるいは定義である。こうした意味は「永遠」に類比的だと言えるだろう。それぞれの音節が生起し、しばらくの間存在し、続く過程に席を譲って「消え去っていく」文の流れとは対照的に、意味は、時間的系列のうちで具体化される(肉体が与えられる)としても、「非時間的な」ものである。意味は、その統一、あるいはその単一性において「ただ単に存在する」。

 

 アリスの不思議の国は、こうした弁証法的精妙さをあらわす瞬間に満ちている。たとえば、チェシャ猫のエピソードを思い返してみよう。チェシャ猫は笑う。つまり、外見に関する限り、そこでなされる動きや状況に関する限り、それは笑いのしるしと解釈される。笑いはそうした物質的条件の本質であり、単なる動きが取る形式あるいは行為である。それは動きが「意味する」ものである。そこで、笑いを残して猫が消え去る。笑いの「時間的」側面は消え去り、その本質、その意味だけが残る。厳密に言えば、その変化をあらわすことはできない。絵でせいぜいできるのは、笑いをあらわす顔の部分だけを残して後の部分を消し去ることくらいだろう。しかし、笑いの本質、あるいは笑いの笑い性はそうした節約画法を許しはしないだろう。「笑い性」は描くことができない。それに最も近いことができるとすれば、それ自体では笑いではない要素を使って、ある特別な笑いを描くことである。そうすれば、視覚的な細部を「超越した」笑いの「永遠の本質」あるいは意味の「一時的な」側面に対応するものがあらわせるかもしれない。

 

 このアナロジーは(「時間」と「永遠」それぞれの言語的対応物を含む)別の方面からも捉えることができる。シンボルを使用する動物という我々の人間の定義を考えてみよう。我々の出発する語によって、二つの全く異なる「永遠」の観念を考えることができる。一般性を示す「動物」が示唆する「永遠」は、永久に広がる時間と考えられた永遠であり、この永遠は「時間を超えている」と言える。一方特殊性、種差を示す「シンボルを使用する」はアナロジーによって、別の永遠、原理、普遍、本質の定義のような、「固定され」「不変な」観念を示している。この種のアナロジー(サンタヤナが「本質の領域」について書いた部分で見事に扱ってみせたが)は永遠と無限に引き延ばされた永遠とを比較することによって際限のないという考えを提示することには失敗するだろう。

 

 この二つの「永遠」の観念、あるいは、「時間的」秩序と「固定した」秩序との相違は、また、「論理的先行」と「時間的先行」との曖昧な関係を含んでいる————しかし、多分、この点は第六のアナロジーのもと考えるのが最良だろう。