ブラッドリー『仮象と実在』 199

[より特殊な自己実現としての善について。]

 

 善の一般的な意味とその作用について簡単に述べたので、より特殊な限定的意味について次に考えることができる。すでに見たように、善は存在と観念の側面をもっている。そしてその限りにおいて、存在は観念と調和したものとして見いだされ、観念自体は、その限りにおいて、事実のうちに必然的に生みだされ、実現されるわけではない。しかしながら、善をより狭い意味にとるとき、この最後の特徴は本質的である。端的に言って、善は実現された目的、完成された意志となろう。対応する内容を事実のうちにもっているだけでなく、付け加えもする観念は、この照応関係をつくりだし、もたらすものである。観念は実在に翻訳され、実在へと実現すると言える。どちらの側も内容は同一であるが、存在は観念の働きを通じて現になるようになる。かくして善は目的と自己実現の領域に限定されることになろう。別の言葉で言えば、通常道徳性の領域と呼ばれるものに制限されることになろう。

 

 というのも、有限の魂以外では、自己実現ということは意味を持たないはずだからである。そしてもちろん、あらゆる魂は、それがすべて人間のものでないことは確かだが、有限である。時間の過程を含む意志そのものは絶対に属し得ない。他方において、我々は物理的世界に目的の存在を仮定することはできない。自然における目的論の問題については次の章で戻ることになろうが、ここでは便宜上我々の観点から排除しなければならない。端的に言って、魂以外では自己実現は存在しない。

 

 現在のところ、善とは有限の魂による観念の実現である。単なる完成ではなく、意志によって実行された完成である。我々は一方において、すでに見たように、是認が道徳性を超えることを忘れるべきではない。そして、道徳性が内的なものだというより限定された意味については目を閉じていなければならない。ここでは善とは、完璧という観念を持つ個人によって実行されるものである。この意味においても、簡単に善が不整合なものであることを示さねばならない。それは永続的に自己を超越していくような観点である。

 

 もし我々が、ある特殊な内容を求めるつもりで「善とはなにか」と問うたなら、以前と同じく「なにも存在しない」と答えねばならない。すでに見たように、快そのものは善の本質ではない。他方、世界のどんな特徴も善から逃れるものはない。美、真理、感情、感覚、想像可能なあらゆるものは完璧を構成し続けるはずである。完璧や個的なものはある体系であり、調和があり、あらゆるものを含むからである。そして善は、魂によって意志された完璧な実在だとされている。それゆえ、体系の形式自体、また、全体から離れたものは完璧でも善でもない。(1)

 

*1

 

 しかし、真理や実在、そして善でも、我々のひとつの基準は二重になり、個物であることは調和と広がりの二つの側面に分離する。原則的には、そして現実においても、二つの特徴は合致せねばならない(第二十四章)。しかし、現象を判断する場合には、常にそれらを別々に適用せざるを得ない。この二つの側面がある完璧が実際に実現される多様で具体的な様態についてはなにも言うつもりはない。しかし、あらゆる善に根源的な欠陥をもたらすものとしてひとつあげるなら、適用の不一致を強調しよう。広がりと調和の諸側面は最終的には一緒になるが、同じくらい確かなのは、この目標においては善そのものも消え去ってしまうだろうということである。

*1:(1)このことは特に、善や道徳性の特殊な感情に当てはまる。