ケネス・バーク『宗教の修辞学』 9

六種類のアナロジーは次のようにまとめられる。

 (1)言葉に関する言葉と、ロゴスとしての言葉に関する言葉との類似性。

 (2)言葉と非言語的な自然との関係は、精神と物質との関係に等しい。

 (3)否定的なるものについての理論の冒頭の置かれる言語理論は「否定神学」に対応している。

 (4)言語によって名称を与えることは、「神-語」と呼ばれる名称の名称を求めることになる。

 (5)「時間」と「永遠」との関係は、文の個別性と文の単一なる意味との関係に等しい。

 (6)名前と名づけられたものとの関係は、三位一体での格のあいだの関係に似ている。

 この一覧は、現在広く行き渡っている考え方を図式化したものに過ぎない。しかし、一般的に、そうした考え方は断片的であり、目的が不確かである(過度に実証主義的な意味の規範に対する抵抗を越えたところでは)。特にこうした思考法は、世俗的文学を「神話」として考える批評家に顕著であり、神話は「宗教」と「詩」を両義的にあらわすものなのである(捨て去られた「科学」の断片が「魔術」と呼ばれるのに即応している)。これまでの著作では*、定位、変容、「不調和な遠近法」、「誤った命名による悪魔払い」、再簡約化(『恒久性と変化』)、「世俗的祈り」(『歴史への姿勢』)、「再生」(上述の書と『文学形式の哲学』)、「神-語」(『動機の文法』)、純粋に世俗的であり、「神性」の社会的類似物である「魅惑」、「ロマンス」、「美」(『動機の修辞学』)、「純粋な説得」†(同じく『修辞学』)、カタルシス(いかに詩が啓蒙的な読者を「一掃」しようとしているかという現在行われている試み)などを扱うことによって、言葉の「創造的な」性質を考えてきた。

 

 

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 しかし、これらの努力の多くには、私がいま述べ立てようとしている特殊な「ロゴロジー的」留保事項が欠けている。後期の著作でさえ、この試論にある特殊な公式が欠けているのである。一般的に、「神聖な」ものから「卑俗な」ものへ、「霊的な」ものから「世俗的な」ものへの単純な歴史的展開が仮定される傾向がある。しかし、ロゴロジーは、こうした単純な弁証法に体系的に抗するよう説き勧める。

 

 論点を理解するには、キリスト教教会の宗教的儀式での聖職者の祭服の移り変わりを考えるだけでいい。その祭服は他の信仰の儀式で用いられたものを借りたようには思われない(例えば、異教徒やユダヤ教の聖職者が着ていたものをとったのではない)。むしろ、それは本来世俗的な衣服であり、教会の外で着られていたものなのである(儀式にまず必要なのはさっぱりしていて、清潔なことである)。しかしながら、それらの衣服は純粋に儀式的な意味合いをとるに至った。世俗的な衣服のスタイルは徐々に変化していったが、聖職者によって伝統的に着られている祭服は典礼において使用され続けたのである。かくして、聖職者の祭服は、宗教的なものとして一般的な世俗的スタイルから徐々に「取り置かれる」*ことになった。聖職者と俗人の習慣的慣習、慣習的衣装は次第に枝分かれしていった(「祭服」という言葉そのものが、いまでは通常聖職者の衣装を意味するものとして使用されるが、本来は「衣服」一般を指していたのである)。

 

*2

 

 かくして、宗教的様式が世俗化される歴史的趨勢と共に(例えば、ジェイムズ・ジョイスイエズス会師としての宗教的教育を芸術のイエズス会的策略へと変え、「想像力の祭司」となる世俗的人物によって宗教を美学化したように)、世俗的なものとして始まったシンボルが、宗教的伝統の発展を通じて次第に「取り置かれる」という正反対の趨勢もあるのである。

 

 従って、神学とロゴロジーの関係は、一方向に進む単純なものだと考えるべきではない。このことは既に幾度か触れたことであり、これで終わりにしよう。

 

 神学的弁証法の観点から見ると、超自然的な人格という観念は特に興味深い。既に見たように、経験的な概念としてみると、人格は三つの経験的秩序からなる構成要素で成り立っている(自然についての言葉、社会-政治的なものについての言葉、言葉についての言葉)。神性をもつ人格は、この経験的用法からアナロジーによって拡張される。

 

 しかしながら、この段階において、神学的弁証法は、戦略的にその方向を転じることに注目しよう。つまり、いまここにある人格をアナロジー的拡張がなされたものと見なすのである。かくして、経験的な三項の体系が四項の体系に拡張されるとき(第四項は経験を超えた領域をアナロジカルに指している)、最初の三項は第四の項の本性によって変更されたものと見ることができるような、弁証法的条件があらわにされる。端的に言って、経験的人格は、超自然的人格の精神を分かちもつものとして見ることができる。第四の項は、かくして、本質において他の三項に「先行」し、それらの「根拠」となるのである。

 

 もちろん、これはプラトン主義の弁証法における二つの運動の一例である。第一に、「低次の名辞」から「神秘的に」(類推によって)とらえられた唯一の超越的な名辞へ向かう「上昇の道」がある。そして、弁証法家が登り始めた「低次の」名辞に戻る「下方への道」が存在する。しかし、その場合、「低次」の名辞は、途中で出逢った一者の原理によって修正を加えられている。世俗的で、経験的な名辞は、「超越的」名辞の「精神が吹き込まれて」いる。

 

 経験的な場でさえ、更なる改良が可能となる。それ自体経験的な領域から類推によって派生した超自然的な名辞は、借用され返されることが可能となり————類推の頂点における類推として————経験的な領域に再適用され、いまここにある人間の人格は超越的な超人格性からの派生物として考えられることとなる。

 

 しかし、類推が出発点を再び照らし出し、自らに折り返される領域は存在するにしても、超自然的な名辞が類推的に作りあげられ得る根本的な材料とは次のようなものである。

 

 第一に、自然の広がりと力(嵐、海、山)、水晶や生物の対称に見られるような構造的な整合性。第二に、社会政治的秩序における職業的な威厳や荘重さ————家庭的な親密さ。第三に、(ここでは新語を造り出さざるを得ないと思われるが)象徴の「象徴性」である。

 

 現在の考察の観点からすると、類推のための第三の源が「横並びのうちでも最も重要なもの」として位置づけられる。

 

 まとめると、アナロジーには三つの源と、それ自体アナロジー的な第四の領域から再び借りてこられるアナロジーがある。究極的な目的を考える際には、そうした言葉を使って詩人は想像し、哲学者は考慮し、予言者は脅かしたり約束したりするのである。我々の目的にとって重要なことは、この言語の「第四の領域」が合理的でないのが明らかな状況においてさえ、いかにモチーフとしてあらわされ得るかについての手がかりとして、神学的テキストを研究することにある。人間のシンボル体系の「超越」は様々な形で働いており、まったく異なった目的のために企図された用語法においても働いている。神学的な教説のように、あからさまに超越に関わっているテキストは、そうした過程の「完全で詳細な」例を与えてくれる。ロゴロジーは、まずこうした考えをもってそれらを研究するのである。

*1:

*ケネス・バーク『恒久性と変化』、『動機の文法』、『動機の修辞学』、『文学形式の哲学』、『歴史への姿勢』参照。

†「純粋な説得」には次のような言語学的驚異が含まれている。言語がコミュニケーションの目的のために形成される限り、コミュニケーションの動機がその形式には含まれている(三つの「契機」、語り手、発せられる言葉、聞き手において)。そうした企図は、称賛、罵倒、勧告などの表現で十全なる表現を得る。実際的な目的のためにそうした手段を使用することは、通常の意味合いにおける「説得」の例となろう(例えば、アリストテレスの『修辞学』では、多くの「トピカ」が語り手によって使用されるものとしてあげられている)。「純粋な説得」は、そうした表現の形式だけを用いるもので、ある政策や個人に対する人々の姿勢に影響を与えるといった特殊な目的のために罵倒を行うのではなく、単なる「芸術への愛」のために行うことを意味する(例えば、我々を喜ばせるフォルスタッフのような人物による達者な言葉遊びのように)。「純粋な説得」はそれ自体が目的である宮廷作法の形式に喜びを見いだすこともあろう。それゆえ、実際的な「成功」が排除されている限りにおいて「純粋」であり続けることができる。ダンテのベアトリスに見られるような理想的な「手に入れることのできない」女性に対する愛の公言は、こうした形式性の個別化されたあり方を示している。形式的観点だけから見ると、「神」は理想的な観衆の原理をあらわしている。人間という動物が本来的に説得的な媒体を使用する特徴を持っている限り、「完璧な」観衆の観念に向かう純粋に形式的な刺激が存在し、この「観衆」に、まったく非功利的に、「将来についての見込み」などなしに称賛と感謝を得ようとする究極的な傾向が存在する。ロゴロジーの観点から神学用語を言い換えると、こうしたことが「純粋な説得」の動機となろう。

 

*2:*この表現の完全な意味は「『秩序』の観念に含まれる用語の循環」を論じる際に明らかになるだろう。