ケネス・バーク『宗教の修辞学』 10

 アナロジーについては、ここにあげた六種類と、それに関わるものとでいいだろう。要約すると、「言葉-ロゴスとしての言葉」のアナロジー、「物質-精神」のアナロジー、「否定的なるもの」のアナロジー、「名義」のアナロジー、「時間-永遠」のアナロジー、「形式」のアナロジー、「創造性」のアナロジー、「宮廷作法」のアナロジー、「可逆性」のアナロジーとなる。以下において、我々の目的に特に適った二つのテキストの分析を通じて、間接的にあらわされることとなる「言語哲学」に関して少々述べておいてもいいだろう。しばしば私は自分の立場を「劇学」という名のもとにあらわし、行動は劇において最も重要な側面であるので、言語を行動の一種として、「象徴的行動」として定義した。

 

 この観点は二つの対照によってもっとも手早く示される。

 

 第一に、「劇学」は「科学主義」と対立する。そこには必然的に科学そのものへの不信が含まれるわけではない。ただ、特殊な言語と一般的な人間関係は知識によるよりも行動においてもっとも直接的にとらえることができるということを意味しているだけである(或は、「知覚」によるよりも「形式」によって)。「科学主義者」は、「私がこの対象を見るとき私はなにを見ているのか」であるとか、「どう私はこれを見るのか」といった本質的に認識論的な疑問をもって問題に取り組む。しかし、典型的な「劇学者」は次のように問う。「この特殊な形は、なにから生まれ、なにを経由し、なにに赴くのか」、或は、「この構造においてどんなことがなにとともに起こっているのか」、或は「どのように私は悲劇によって『浄化される』のか(浄化されるとして)」。どの問題も科学が扱っている領域に侵入することで終わる。しかし入る道筋が異なり、劇学は行為や形式の問題から始め、科学主義は知識や知覚の問題から始める。(一方は「存在論的」側面を、他方は「認識論的」側面を強調する--しかし、どちらの側も他を包含することによって完成しようとするのであるが。)

 

 第二の大雑把な対立は、「行動」の強調に対する「運動」の強調である。「運動」は必要な範疇であるが、動機に関するあらゆる問題を「運動」として扱うなら、過剰な必然性へとすべてを還元することになる。行動主義的な動機に関する用語では、「行動」は「運動」に還元されるが、劇学は、「行動」はより包括的な領域であり、「運動」だけでは適切に記述することはできないと主張する。「行動」と「運動」との関係は、「心」と「脳」との関係に等しい。

 

 しかしながら、「行動」のない「運動」はあり得ても(傾斜した面をボールが転がり落ちるときのように)、「運動」のない「行動」はあり得ない。経験的に言うと、心のない脳はあり得ても、脳のない心はあり得ない。かくして、劇学は、「行動」は「運動」の次元に還元するだけで適切に記述することはできないが、行動の領域には常に「運動」の秩序が含まれていることを仮定するのである。例えば、あるゲームのルールはそのゲームにおけるプレイヤーの「行動」を限定する。ルールによって定められたゲームの目的と制限(その「形式」)に従って身体を動かすことによってのみ、プレイヤーは行動することができる(「共同で競争する」ことで、全体としてのゲームを定める)。

 

 この観点からすると、「意味」は理想通りに「情報理論」や「信号」の機械的「解釈」などに還元されるものではない。いまあるどんな体系にも、意味が実際に、経験によって立証できるような形で還元されはしない。しかし、サイバネティックスのような体系が、「理念」として、「もし充分複雑な機械をつくりだすことができれば」還元することが可能だと考えているのは明らかである。劇学は心的行動と機械的運動との間に質的経験的な相違を仮定する。もし人間が、人間を扱う場合と機械を扱う場合に行う経験的な区別を無効にするような「十分に複雑な機械」を発明したなら、劇学的立場は捨て去られねばならないだろうし、少なくとも多大な修正がされることになろう。しかし、現在のところ、劇学は、すべての人間が「人々」に接するときと「事物」に接するときに行う明白な経験的区別に基づいている。「人々」とは「象徴的行動」が可能な存在である。様々な程度において、彼らは言葉をかけられ、「理を説かれ」、嘆願され、説得される。「事物」は動いたり、動かされたりすることしかできない。