ブラッドリー『仮象と実在』 201

[それらはどういったものか。]

 

 道徳性において、こうした両立し得ない理想のどちらかを選択することが強いられていると示唆しているわけではない。というのも実際そうではないからで、もしそうなら、生はほとんど生きがたいものとなる。非常に大きな範囲において、個的な完成など考えず、個人的な利益など約束しないかに思えるものを目指すことによって、人間は個人的な幸福を守っている。おそらく、主として、自己犠牲と自己肯定のあいだに衝突はなく、全体としては、どちらも、その正しい意味合いにおいて道徳性のために存在しているわけではないとさえ言えるだろう。しかし、それらの側面が一般的に同一であることを認めるにしろ、主張するにしろ、部分的に分かれているという事実は主張される。そして、少なくともある点において、ある人間において、こうした二つの理想が敵対するように思えることは、健全な観察者には否定され得ないところである。

 

 別の言葉で言えば、二つの非常に異なった道徳的善の形が存在することを認めねばならない。完璧な自己という観念を理解するためには、部分的に衝突する二つの方法のどちらかを選ばねばならない。端的に言って、道徳は自己犠牲か自己肯定のどちらかを命じるのであり、そのそれぞれの意味について観念を明らかにすることが重要である。共通の誤りは、前者を他のために生きること、後者を自分自身のために生きることと同一視することにある。この見方の美点は、直接的または間接的に、目に見える形でまたは見えない形で、社会的であることにある。つまり、個人の発展は、社会の幸福を増さない限り、道徳的ではあり得ないことになる。この教義は、私もそれを真理であると考えざるを得ないが、過大解釈され、誤りとなるまでに曲解されている。(1)少なくとも、美徳として反駁できないような知的その他の達成が存在する。しかし、例外は除き、それらすべてが社会的幸福になにかを付け加えると想定することはできない。またいかにして社会的組織がそれらを直接に保持する主体となるか理解できない。しかし、もしそうであるなら、あらゆる美徳が本質的に、あるいはまず第一に社会的であると認めることは不可能になる。反対に、社会的善などは無視し、他の目的の追求に従事することが、道徳的な自己肯定ではないばかりか、他の条件のもとでは、道徳的な自己犠牲ともなり得る。「自分自身のために」生きることよりもむしろ、「他者のために」生きることが不道徳で、自己中心的だとさえ言える。

 

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 自己犠牲と自己肯定との区別をつけることはほとんどできず、追い求める観念がある場合には個人を超え、別の場合にはそれに失敗する。むしろ、こうした一節は、定義しないままにしておくと、ほとんどなにも言っていないことになる。個人を最も低い次元でとらえると、どんなたぐいの永続性のある目的もすべて個人を超えることになろう。そうした場合、明らかに、個人の完成において実現された内容は個人以上に、個人を超えたものになるに違いない。その完成は残りの宇宙と切り離されたものではなく、私用に供することによって獲得し、特殊な調和に、あらゆるものに共通のなにかに還元する。社会的である限り、個人の幸福がなんらかの程度他者の幸福を含んでなければならないのは明らかである。そして、知的、美的、道徳的発展は、つまりその本性の理想的側面は、他者の魂と共有する要素でできあがっているのは確かである。それゆえ、自己進展における個人の目的は、常に個人的な存在を超越しなければならない。事実、自己肯定と自己犠牲の相違は、それらが用いられる内容にあるのではなく、それらをつくりあげる多様な使用法にある。このことを説明してみよう。

 

 道徳的な自己肯定では、用いられる諸材料はなんらかの源泉から引きだされ、なんらかの世界に属しているかもしれない。それらは主として私の生を眼を見えて超えでたものであるかもしれないし、またそうであるに違いない。しかし、こうした要素を適用するに際し、私が自分のなかにある最も偉大な体系という観念に導かれているのが自己肯定である。別の言葉で言えば、私の材料を量り選択する際に使用する基準が、私の個人的な完成を発達させるものならば、私の振る舞いは明らかに自己犠牲ではなく、それに対立するかもしれない。自己犠牲とは、個人的な喪失を受けても目標を追求するような場合である。その対象に達することで、私の自己は、混乱、あるいは減少し、消え去ることさえあるかもしれない。社会的な目的のため、私は他人のために自らの繁栄をあきらめることもあり得る。あるいは、非個人的な目的に従事し、私の自己の健康と調和が傷つけられることもあり得る。追い求められている道徳的目的が個人的な幸福を失わせるものであるところでは、それは私が「他人」のために生きていようがそうでなかろうが、自己犠牲である(1)。しかし、自己犠牲はまた、他方において、自己実現のひとつの形である。それが目標とするより広い目的は、目に見える形であれ見えない形であれ、達成される。そしてその追求、達成において私は個人的な善を見いだす。

 

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 有限である私の生の本質的な性格は、肯定し、同時にそれを超えでることにある。それゆえ、自己犠牲と自己発展の対象はそれぞれ等しく私のものである。隠喩を真の本来ある限界から超えて用いてみると、おそらく次のような対照が得られるだろう。自己肯定においては、器官はまず最初に自身の成長を考え、その目的のために他のあらゆる器官に共通する生命力を引きだす。しかし、自己犠牲においては、器官は自身よりも大きな生を実現することを目的としており、そのためには自らの存在を損なう用意もできている。ある種の完成、個人、円熟、具体性などの観念はないものとする。喜んで自らを抽象化し、切断し、過度の特殊化も辞さず、成長を阻み、破壊しさえする。しかし、この現実的な欠点は、特殊な限界を超えて広がることによって、より広い実在と意志とが同一化することによって、観念的に繕われうる。確かに、このように記述すると、二つの追求は主要な点で一致し、同一であるに違いない。全体はその部分が自己探索することによってさらに遠くまで広がるが、というのは、そうしたことによってのみ全体は姿をあらわし、実在となり得るからである。そして、部分もまた、全体のための行動によって、それを埋めるのに必要な共通の実体を供給されるのであるから、よりよきものとなる。しかし、他方において、この一般的な一致は一般的でしかなく、合わない点が存在することも確かである。そこで、自己肯定と自己犠牲は離れはじめ、それぞれ別々の性格を得ることになる。

 

 どちらの行動のあり方も自己を実現し、より高次なものを実現する。そして(このことを繰り返さねばならないが)、どちらも同じように美徳があり正当である。もし自分自身についてなにもしないならば、個人にはいかなる義務があるだろうか。あるいはまた、その完成において、全体となることは完成せず、個人がどこかで自らが先んじていることを愉しみ、宇宙からは離れていることなど想定されるだろうか。しかし、絶対と有限な存在のそうした分離が無意味であることはすでに見てきた。あるいは、別の側面から、自己犠牲は理性に反すると言うべきだろうか。しかし、有限な存在のまさしく本質は自己矛盾であり、本性として他への関係を含み、それらはすでにして自らの存在からはみ出していることはすでに見てきた。もしそうなら、有限な、自己実現するものが、自らの限界を超えでないことは不可能であり、もっとも理性に反することでもあろう。もし有限な個人が真に自己矛盾したところがないなら、そのように論じ、示してもらおう。しかし、そうでないなら、自然であり必然的に思われるふたつに分岐する完璧の理想に従わざるを得ないだろう。そのどちらの探求においても、一般的であれ抽象的であれ、等しく善である。どちらの場合でも、それらのどちらかを決定できるのは、特殊な諸状況だけである。

*1:(1)『倫理学研究』200-203ページ参照。またこれ以下の431,429ページと比較のこと。

*2:(1)現在のところでは、非道徳性や、失敗に思われる自己犠牲については考慮に入れないでおく。