ブラッドリー『仮象と実在』 202

[それらはともにあるが、絶対において超越される。]

 

 この分岐が終わり、最終的に一緒になるのはもっとも確かなことである。というのも、絶対の外部にはなにも存在せず、絶対においては不完全なものはなにも存在しないからである。そして、観念と存在との不一致を含む完成されていない対象は、不完全なのはもっとも確かである。絶対においては、あらゆる有限なものは探し求める完成に到達する。しかし、他方において、まさしく探し求めていた完璧を得ることはできない。というのも、すでに見てきたように、有限なものは多かれ少なかれ変化し、そうしたものとして、達成において消え失せるからである。この共通の運命が善の終結であることは確かである。自己肯定と自己犠牲において求められる目標はどちらも達成され得ないものである。個人は自らにおいて決して調和のある体系になることはできない。そして、より広範囲にわたる理想に従事し、どれだけ完全を期そうとも、決して完全な自己実現を見いだすことはできない。というのも、理想を完璧なものとし、完全に充足したものとしても、結局のところ、彼自身は完全にそれに吸収されることはないからである。もし不調和な要素を信仰で包み込んだとしても、信仰も同様に、不一致な外観が残ることを意味している。完全な天賦の才能によって人格がまったく消散してしまえば、彼は、そうした存在としては、消え去るに違いない。そして、それとともに、善はそのような形では超越し、覆い隠されることになる。この結果はこの章が始まったときの結論でしかない。善はあらわれであり、現象であり、それゆえ自己矛盾的である。それゆえ、真と実在の程度の問題の場合にように、それらは完全には一致しない一つの基準の二つの形であることを示している。最終的には、あらゆる不調和に調和がもたらされるところでは、あらゆる観念もまた実現される。しかし、なにものも失われ得ず、あらゆるものが、付加あるいは再配列によって、多かれ少なかれその性格を変える。そして、断固として、自己肯定やいかなる自己犠牲や、善や道徳性は、それ自体としては絶対のなかの実在ではない。善は従属的なものであり、それゆえ、宇宙の自己矛盾的な側面である。