ケネス・バーク『宗教の修辞学』 12

2 聖アウグスティヌスの『告白』における言語的行動

 

Plus loquitur inquisitio quam inventio.

                     『告白』第十二巻1

 

Ⅰ.一般的語について

 

(修辞的なと神学的なロゴスとしての語との相違のもとにアウグスティヌスの言語行動を見る。典型的なのは、「打つ」という意味の語から言語verbumを引きだしていることである。『三位一体論』における「語」の意味範囲。「語」と「意志」との密接な関係。)

 

 異教の修辞学の教師からキリスト教神学者であり司教への転換に関係して、アウグスティヌスは二度言葉の商人(venditor verborum)の役割に言及している。ある意味では、『キリスト教の教え』の第四部でも『告白』と同じ横断、転向がなされている。そこでも、言葉を売ることからロゴスとしての語を伝道することへの発展が関わっている。しかし、キリスト教のレトリックについての作品では、ある部分では、教会の目的のためにいかに異教徒の言語的技術を適用するかに、またある部分では、キリスト教は既に人を動かすだけの文章手段をもっていると示そうとしているが、自伝では二つの領域に橋を架けることよりも断絶することに力点が置かれている。

 

 アウグスティヌスが研究されるべきなのは、まず第一に、彼が世俗的な語と神学的なとの関係を(或は無関係を)明らかにしたことにある。

 

 まず始めに、思い起こしておく価値があるのは、「教師について」(De Magistro)という論考で、現在「意味論」と呼ばれて一般的になっている問題について息子と議論しているのだが、そこで彼は、verbumという語が「打つ」(a verberando)という意味の動詞から来たものだと主張している————この考えは神の規律における鞭打を述べていることとうまく適合する。例えば、『告白』(第十巻4))を見ると、神がそのでもって彼を打つ(percussisti)ゆえに神を愛すると言っている。アウグスティヌスの称讃は、慈悲とともに報いの源でもある神(deus ultionum et fons miseicordiarum simul第四巻4))に向けられている。

 

 対話編「教師について」では、「名前」や「名詞」(nomen)は「知る」(a noscendo)という動詞から引きだされている。こちらの語源の方が現代の語源学者には受け入れやすいものだろうが、どちらも等しくアウグスティヌス流である。

 

 多分、verbumの意味についてアウグスティヌスがもっとも濃縮した考察を行なっているのは『三位一体論』の第十五巻六章であろう。そこで彼は人間の言葉と神学的な意味における言葉との「闇に覆われた」、「謎めいた」類似について体系的に論じている。典型的なものとしては、我々が「内部」で考えた言葉は語られる複製された言葉よりも正しい。更に彼は、沈黙のうちに想像される語られた言葉と、そのままではあるが「胸の内で語られる」言葉とを区別する。それは知識(ここでは記憶と等しいだろう)から生じるものである。アウグスティヌスは『集会の書』から引用する。「言葉はあらゆる仕事の始まりである」、そしてこれは明らかに「観念」、「目的」、「計画」、「姿勢」の入り混じったものであろう。つまり、彼は次のような意味の広がりをとらえている。語られた言葉、語られたものとして考えられてはいるが沈黙のうちに語られる言葉(恐らく、黙って読まれたり書かれたりする言葉もこのうちに含まれるだろう)、人間の行動に先行し経験を導く予備的な姿勢、聖書や伝道によって伝えられる宗教的教説という意味での神の言葉、三位一体の第二格である知恵としての神の言葉、血肉化した神の言葉

 

 アウグスティヌスの言葉についての考え方の主要な側面として、言語と意志作用との関係を強調することがある。かくして、『告白』(第一巻8)では、子供が言葉と合図の解釈をどう学ぶかについて論じ、子供は激しい欲望を鎮めるために言語を習得するよう促されるのだと言っている。ここでは十七行のうちに「意志」と「意志する」(voluntas,velle)という語が八回あらわれている。全体として簡潔なこの章は、言語行動が単なる身体的な動きから始めて生じることになる幼児期の束の間に関わっている。ここでもまた、言葉、合図、願望、意志、意志することについて語りながら、記憶の役割についての彼に典型的な強調と、同じく典型的な「どうして」(unde)という語があらわれている。「注意を向ける」という語は「向きを変える」という語と特徴的に結びついており、『告白』において数多く目立った形であらわれるもので、この本は意味深く「向きを変える」(「転向する」)人間についての考察だと思われるほどである。