ケネス・バーク『宗教の修辞学』 13

Ⅱ.始まり

 

(音楽性および観念として考えられ、方向性と否定強調点が置かれた冒頭。本の最初の文が含むもの。文体の範型としての『詩篇』の重要性。称讃の心理学。他の証拠となる語、特に「探し求める」、「我-汝」、「どうして」。アウグスティヌスの文体の印象主義的な翻訳。内面性と記憶。現在時の状況を位置づける聖書からの引用の効果。)

 

 始まりということで最初に注目されるのは内面性というテーマである。十二行において八回invocoという動詞を様々に活用させて祈ることでこの作品は始まっている。現在の目的においては、接頭辞が強調されるべきである。

 

 おなじ言葉は次の文、或は次の「連」と言った方がいいかもしれないが、にも三度あらわれている。(この巻は簡潔で強い呪文のような一節からなる章で始まり、同じように、ときにアリアのような間奏曲が散らばっているが、一般的に中間の章はより長いものとなっている。)また、数多くの前置詞inに注目しよう。「私に・・・汝に・・・それに・・・地獄に・・・」また副詞の「それゆえ」(inde)――文字通りの意味では「満たす」を意味する語で終る一節はinのテーマに別の変奏impleoを導入する。第二「連」を締めくくるこの語は、次の連の音楽的テーマとして取り上げられ、impleoの形式が十五行に七回あらわれる。(アウグスティヌスは、自分自身について語ることと神のうちにある世界を語ること、自分のなかの神について語ることと世界について語ることのバランスを計算し、ラプソディー的な形であらわしている。)

 

 第四節では、もう一つのinが力強く発展する。方向を示すin(アウグスティヌスによる「内的な人間」の強調と調和する)の他に、否定のinが公言される。すでにinquietumやnesciensなどの語として散在していたが、文字通りの意味では「入ってくる」を意味するラテン語の「発見する」(inveniunt)とともに「でない」「を除いて」(non,sine)がまき散らされる。また、「でなければ」や「でもない」の例(nisi,nec)もある。

 

 そして、まず最初に十の最上級でもって神を述べた後に(「最高、最良、最も力強く、最も有能で、最も慈悲深く、最も正しく、最も神秘的で、最も現前しており、最も美しく、最も強い)、彼は否定神学に典型的な形容語句「理解することができず、変えることもできない」に行き着く。それは即座に撞着語法へと転じ、「変化することなく、永久に変わり続けるもの。決して新しくはなく、決して古くはないもの」となる。そして、「あらゆるものを新しくするもの」となる(innovans omnia――比喩として用いられているが、方向を示すinに戻る)。また、「常に活動し、常に静かである」と言うときに繰り返される「常に」が、「決して新しくはなく、決して古くはないもの」というときの「決して」の繰りかえしと同じ効果をもっていることにも注目すべきだろう。(おそらくこのことは、無限がゼロと等しくなる数学的逆説と一致しているのだろう。いずれにしろ、このことは否定神学の否定がいかに神に適用される「全体性」の観念と適合しているかを示している。)こうした逆説的対立がほとんど否定形で続き、なかには「決して秘めたる力をもたないことはなく」(numquam inops)といった二重否定もある。そして、終結部にかけて、同じ方向性に沿って新たなひねりが加えられる。神について沈黙を守る者に災いあれ。というのも、神に関する限り、おしゃべりでさえ無言に等しいからである。

 

 序(あるいは「序曲」)から続く叙述において、Ⅳの矛盾撞着はⅤで完成に達する。ここで、神の顔を見ることを祈り、呪文のような言葉で終えている。「わたしは、死ぬことのないように、あなたのみ顔を仰ぎ見るために死のう」(moriar,ne moriar,ut eam videam)。同じ語を二つの対照的な意味で理解させる否定形をともない、「死」の繰りかえしは最初の部分に予言的な性質を与えている。そしてその性質が、第二部分のeam-videamによって補強されている(部分的には、videamのeよりeamのeが強調されることによって希薄にされているのであろうが)。

 

 結局のところ、方向転換を示すinと否定のinとが繰り返されることで、この序は交響楽的に二つの原理を融合させるにいたっている。我々はまず最初にこうした反復に潜む音楽性を強調する。しかし、そこには音の論理同様、意味の論理も存在している。というのも、否定はその中枢部分においては道徳的なものだからである。それは一音節に還元された諫止の行為である――そして、アウグスティヌスは常に、倫理的な向上を霊性と同一視している。かくして、暗黙のうちに予言された発展の光のもと立ち返って見直してみるなら、彼の最も特徴的な動機がかくも正確に、おそらくは幾分謎めいてはいるが意味深い形で象徴されるには別の方法を考えることは困難である。

 

 ちなみに、四節を通じて比率は次のように変化している。

         節     方向のin       否定のin

         Ⅰ      14          6

         Ⅱ      23         10

         Ⅲ       7          8

         Ⅳ       4         18

かくして、ⅣはⅠの配分をほぼ逆転した形になっている。

 

 しかし、この最初の短い五章が形式的には始まりの働きをしているのは明らかだとしても(六章で彼は幼年期のことを考察し始め、本来の叙述が始まる)、アウグスティヌスのように構成に勝れた作家の場合、はじめの一文を取って考えただけでも大きな成果を上げることができる。それは詩篇145:3,147:5の引用で成り立っている。「主よ、あなたは偉大であって、大いにほめられるべきである。あなたの力は偉大であって、あなたの知恵は測られない。」ラテン語で「力」を示す語(virtus)は、人間に用いられる限りにおいては、もともと男らしい道徳的高貴さを示している。こうした抽象物にはすべてあてはまることであるが、異教によって美徳の女神として人格化されている。後に見るように、ラテン語の「知恵」(sapientia)がそのもともとの意味が「味わう、香る、味をつける、風味がある」を意味し、そこから派生的に「趣味、識別力をもつ」を意味するようになった動詞sapioから来ていることは留意しておいていい。かくして、彼にとってこの語は天上の「食物」について語るのと同じカテゴリーに属し、戦略的な瞬間において用いる表現の一種であり、この点においても聖書が彼の文体上の依るべき権威なのである。

 

 「偉大」や「大いにほめられる」(laudabilis valde)といった形容語句について言えば、アウグスティヌスが多くを記憶した詩篇において、自在に使いこなせる言語的な源泉の本質を指し示している。アンブロシウスは、彼が特に研究したのはイザヤ書だろうと考えていた(旧約聖書の一部で、新約とパウロの非ユダヤ人の救済の説を予示するものと最も容易に解釈される)。しかし、アウグスティヌス自身はイザヤ書を理解するのは困難だったと述べている――『告白』に鏤められている賛美の言葉を読むと、彼の文体が詩篇に依存していることがよく理解される(千に及ぼうかというこの本の聖書からの引用のおよそ三分の一が詩篇からのものである)。教説の関係で、使徒書簡からの引用のほうが多い。しかし、詩篇は範型であり、作品を活気づける修辞的な祈りの言葉に大いに寄与している。

 

 称讃には自由の感覚がある。まったき尊敬において、人は完全に自由である。称讃は「湧き出る」。アウグスティヌスはそれを神からくる、神を称讃することを可能にする力と考えていた。彼にとって異教世界は完全に崩壊していたが、まさしく賛歌の原理によって称讃するかのように、精力的に称讃することができた。偶然性の世界を称讃することはできないが、絶対を称讃することができた。称讃が彼にとって言葉による愛に等しいことの明らかな例は祈りの言葉に見える(第五巻Ⅰ)。「しかしわたしの魂に、あなたを愛するために、あなたを賛美させてください」(sed te laudet anima mea,ut amet te)。残りの文章は、神の憐れみに「告白する」ことから神を称讃する力を引き出し、モチーフを完成させている。(この段階の背後には、神の選びの理論があり、それに従って彼は神から神に告白する力を引き出しているのだろう。)

 

 称讃への切望は称讃しないことへの恐れを含みうる。「沈黙を守ることは災いなるかな」とアウグスティヌスは勧告する。かくして、怒りを和らげるのに役立つ低次元の称讃がある。憐れみの源も、同じく、復讐の神(Deus ultionum)である。更に、称讃が感謝の一形式である限りにおいて、その性質上過去の好意を認めることであり、二次的には未来の好意を嘆願することでもあり得る(ビジネス文書で「毎度ご愛顧いただき」などといった形で戯画化されている動機づけ)。先々の目的のための偽善的なへつらいの称讃でさえ、最上の称讃行為にある何らかの形の「高揚」が保持されている。

 

 しかし、称讃はある種の非難ともなりうる。というのも、Aを称讃することは、Bを称讃することを拒むことであり得るからである。大いに称讃されるものと比較すると、他のものは下に見てもいいように思われる――批評家が同時代のライバルの価値を減ずるために死者を称讃することはしばしば見受けられる。アウグスティヌスの神の称讃は、皇帝を称讃しないための方法ではなかった。ある意味において、あらゆる創造物は、創造者と比較すると卑しいものとして扱いうる。かくして、アウグスティヌスはその起源である神に言及することなしに、この世界のどんな事物をもただそれだけで愛したり、敬意を示したり、研究することにさえ不信感を示した。従って、「好奇心」は彼にとっては議論の余地なく悪い言葉である(例えば、「無駄な好奇心」を科学的な動機づけにとって望ましいと考えるヴェブレンの観点とは対照的である)。だが、創造的な神の言葉に対する知恵を通じ、そこから引き出した称讃の原理が染みわたったものと考えるとき、あらゆる事物が「よいもの」となるという意味もある。(1)

 

*1

 

 この序を再び見直してみると、読者がどうやってそれらが組み立てられるのかまだわかってないうちに、どれ程顕著なしるしが最初から刻印されているか見ることになる。ここには次のような言葉が含まれている。知る、信じる、探る(quaero、探求と疑問の間を揺れ動く語であるが、彼が使うinquisitioやinquisitorは後の教会の歴史でもたれるようになった悪い意味合いをもっていない)、伝道する、人間、意志、被造物、証し、牧師、罪、死すべき運命――そして、至るところにあるtuとegoの代名詞があり、それが「私-あなた」の巻を完成させる(「あなた」は最初の節に三十二回、あるいは、呼びかけのときの「主」を含めるなら四十回あらわれ、第二節ではその対である「私」が三十三回数えられる)(1)。

 

 

*2

 

 別の語についても述べておこう。特徴的な「どこから」(unde)であり、後に標語めいた叫び「どこから悪が」・・・「どこからこの怪物が」(unde malum?・・・unde hoc monstrum?)などの形を取る。典型的なアウグスティヌスのパターンは、「どこに」を探し求めて内面に向うことであるが、undeはまたほぼ対となるinde「そこから」がある。最終巻において、「どこから」の原理は方向を逆転し、展開するのを止めるだろう。

 

 ここで、アウグスティヌスの私-あなたの関係を印象主義的に模倣してみよう。

 

 あなたのなかに、主よ、私はいます(存在します)。かつて私は言葉の行商人であり、その悪徳によって打ちのめされました。いま私はあなたの言葉によって打ちのめされています。ご覧なさい、私、私の記憶、あなたに関する記憶は、主よ、あなたのうちに永遠にある(棲まう)のです。

 (In te ipso,domine,ego ipse.olim eram venditor verborum,flagellatus flagitiis meis.nunc ego flagellor verberibus Verbi tui.tu es in memoria mea;ecce autem ego,et memoria mea,et memoria mea tui,domine,in aeternum in te.これにより印象的になるようin・・・intus・・・inter・・・intra・・・intrare・・・internus・・・interior・・・intimus・・・inde・・・undeをつけ加えてもいいかもしれない。)

 

 彼が自問するのは、神が(第九巻Ⅰ)「あらゆる秘密よりもより内奥にある」(omni secreto interior)ものであるとき、どんな秘密の深みから自由意志が、神の軛を受け入れるために呼びだされるかである。第一巻第十八章において、明らかに彼は自分の本を同じ動機づけのもとに位置づけている。「いかなる文字の知識(conscientia scripta)も良心ほどおくぶかく(interior)はないのである。」第十巻第六章では、比率が純粋かつ単純になる。身体と魂の関係が、外部(exterius)と内部(interius)の関係になる。

 

 彼は第十巻に至るまで、記憶の内在性が演じる重要な役割について十分に論じないだろう。しかし、第一巻の終わり近く、彼は自分の記憶力の旺盛さ(memoria vigebam)について語っている。より後になって、記憶の観念をめぐっては混乱した語が飛び交うことになる。現時点では、彼がいかに自伝的な回想に加えて聖なるテキストの記憶に貪婪であるかに留意しておくだけでいい――この貯蔵が明らかに彼の発する祈りの豊かな源泉となっている。それは探求することによって習得した知識であった(しつこいほど繰り返されるquaeroという語に示されるように)。

 

 彼が言うには、彼は自分の諸感覚一般を内的感覚の支配下に置いた(custodiebam interiore sensu integritatem sensuum meorum)。統治原理はかくして内部に位置づけられる。彼にとってあらゆる存在の根拠である源が何であっても、それは内部を通じてあらわれてくるものであり、内部の一部をなすのは明らかに記憶の働きである。逐語的に学習され、適切な瞬間に発せられる聖書の巨大な貯蔵は、諸状況を個人的に名づけるようなものである。ある状況が生じるたびに、それは何らかの聖書の言葉をもたらし、結果的にそれに関する「方針を採用する」ことになる。かくして、現在の状況に聖書でもって対応することにより、そうした引用が状況そのものを本質的に聖書に属するものとし、文字通りの現にあるのとは全く違う条件のもと分類することになる。かくして、彼が動機を聖書の言葉でもって語ることは、時代の単なる経験的な出来事を「超越する」ことを可能にする意味がある。

 

*1:(1)De Dono Perseverantiae(11.25)において、アウグスティヌス詩篇8:3を引用している。「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは称讃を完全なものとします。」この箇所はもう一つの動機づけの次元、ある意味驚くべき幼児期の称讃との関連を示している。

*2:

(1)動詞と代名詞が一緒のところでは一組で一つと数えた。ego、ego sum、 sumをそれぞれ一度と考える。「神」や「主」が修辞的に二人称の力をもつ場合に、文法的には三人称であらわされる場合もある。