ブラッドリー『仮象と実在』 204

[善の相対性。]

 

 こうした議論は退屈であったが、教訓的でないことはなかったろう。善の本性についての一般的な結論を確認するすべになった。善は絶対でもなければ究極的でもない。それは事物の本性の一面、部分的な側面である。それは不整合によって、原理における自己矛盾において相対的であることを示し、原理の働きにおいて分離に向かう傾向があることを示し、試みられる分離は再び不整合で相対的であり、それ自体に休らうことができないことをあらわしている。このようなものである善はあらわれであり、絶対において超越される。しかし、一方において、絶対においてはどんな現象も失われないので、善は宇宙において主要で本質的な要素である。この変化を受け入れることによってそれは自らの運命を実現し、結果的に生き残ることになる。

 

 諸目的の衝突を考えることによって、同じ結論により簡潔に達することができる。全体においては観念は実現されねばならない。しかし、他方において、諸目的の衝突はそれらを機械的に結びつけることをまったく不可能にしている。そこから導かれるのは、その達成において、それらの性格が変わらねばならないということだろう。我々は同時に、それらのどれもが善ではないとも、それら各々が善だとも言える。そしてそれら諸目的のなかで、正当に悪として非難できるものが含まれていなければならない(第十七章)。善と対立するその実定的な対象は、究極的な善と融合し、それに導かれることになろう。そして、なんら肯定的な内容をもたず、なんの体系も示さない単なる悪と思われるものも、同じように善になるだろう。その肯定や否定によって、その支配を超えた目的の助けとなることだろう。善と悪は、我々が真と誤りを検証するうえで見いだした主要な結果を再生産する。目的における対立は非実在だが、にもかかわらず、まさしく現実のものであり、正当なものである。誤りや悪は事実であり、それぞれに程度があることは確かである。そして、なにかがよりよいかより悪いかは、疑いの余地なく、絶対に相違をもたらす。確かによりよりものは、結局のところ、全体的に規則を超えでることが少ない。しかしながら、善であろうとも、最終的に最初のあらわれと同じということはない。端的に、悪と善は究極的ではない。全体のなかでその特殊な性格を保持しておくことができない相対的な要素である。このことでこの立場は確立されたと考えていいだろう。