ケネス・バーク『宗教の修辞学』 14

Ⅲ.終り

 

(最後の言葉「開かれるであろう」————最後の文の文体的な側面。「開く」という語を含む他の注目すべき文脈。「開く」が「宙づり」に突き当たるような文脈。)

 

 『告白』の最後の言葉は「開かれるであろう」という意味の動詞である(中間部分は始まりと終わり、および全体の展開のもと考えられることになろう)。アウグスティヌス詩編からの引用をもって始めたように、『マタイによる福音書』(7:7)からの引用で終っている。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」始まりにもう一度立ち返ってみると、この最後の言葉がそこで響いていることが発見される。死んであるという撞着語法のなかで、彼は神の顔を見るために生きるであり、「見てください、主よ、私の心の耳はあなたの前にあり、あなたに開かれ(aperi eas)、私の魂に、私はあなたによって救われたものだと言うのです」という。つまり、最後の語が、「魂」や「救い」という目立つ二語とともに、冒頭に置かれている。

 

 不運なことに、アウグスティヌスの文は原文と同じような柔軟性をもって翻訳することは非常に難しい。しかし、この場合、我々の関心は意味よりも音にあるのでそれは大して重要ではない。この目的のために比較されるべきなのは、アウグスティヌスの文の構造とそれに対応する『マタイによる福音書』の文である。

 

 ランダム・ハウス版の『聖アウグスティヌスの基本的著作』では、「あなたに尋ね、あなたのうちに探し、あなたの門を叩けば、答えられ、見つけられ、開かれるであろう」とある。

 

 対応するラテン語は、「A te petatur,in te quaeratur,ad te pulsetur:sic,sic accipietur,sic invenietur,sic aperietur.」である。

 ウルガタ聖書では「Petite,et debitur vobis;quaerite,et invenietis;sic aperietur.」となる。(1)

 

*1

 

 ウルガタ版と英訳の双方とも、「そして」(et)が三度あらわれているが、アウグスティヌスの文には接続詞はない。彼の変更は、アリストテレスが修辞学の最後に記した修辞規則に従っているように見える。「演説ではなく、熱弁に最適のスタイルとは、接続詞を使わないことである。」アリストテレスは例として「私が語り、あなたが聞く、あなたは知り、決心する」という接続詞省略をあげている。

 

 しかし、アウグスティヌスウルガタ版の主要な相違は、アウグスティヌスの動詞の扱い方にある。彼の並べ方では、六つの動詞すべてが同じ語尾turをもっている。更に、そうした同音の語尾がpetatur-quaeratur やpulsetur-accipietur-invenietur-aperieturのはっきりした韻となっている。

 

 おそらく、ウルガタ版は(ギリシャ語版と同じく)動詞のうちの四つは能動態であるのに、アウグスティヌスでは六つの動詞すべてが受動態であるという事実には心理学的な理由が考えられるかもしれない。その可能性は考えてみる価値がある。しかし、いずれにしろ、文の音楽性だけを考えれば、受動態に変えることによって均一な音のパターンを得られることとなる。類似性や対抗運動をもとにしたその他多くの内的調節が認められる。しかし、いまだ言及していない主要な配列は、a,te,in te,ad teに見られる不完全な反復であり、四度にわたるsicの登場で、これは『マタイによる福音書』にはまったく見られないものである。(ちなみに、sicというのは、一文に四度繰り返され、初めから「肯定」の意味を含んでいるので、英語の「だからso」よりも強い調子をもつものではないだろうか。)最後に、アウグスティヌスの文は動詞で終っているが、ウルガタ版は代名詞で終っており、代名詞は途中で直接的な会話による訴えかけをするにはより適しているだろうが、動詞は終末の形式性にはより適っている。

 

 後に、そこに至るまでの段階を概観した後に、この本の結末はより広い意味合いにおいて扱われることとなろう。現在のところは、最後の言葉をキーワードとして考えることに限定し、同じ語が目立った使われ方をしている場所をあげてみよう。

 

 第六巻第四章。アウグスティヌスは、アンブロシウスが文字通りに説明してしまうと「曲解」されてしまうと思われる聖書の一節(「真の」党派の重要な一要素となる言葉)を例えを用いていかに説明し、自分を助けてくれたかを語っている。こうした真の意味を明らかにすることを彼はaperietの語であらわしており、それは「神秘的な覆いを取り除くことによって」(remoto mystico velamento)なされる。

 

 第六章第五巻。聖書は「最も開け広げに」(verbis apertissimis)表現していながら、その「気高い秘密」を守っている。

 

 第六巻第七章。アウグスティヌスは、修辞学のある点を説明するために、競技場の例えを用いることでアリピウスをいかに改心に導いたか語る。悲しむべき「好奇心」によって闘技場の中毒となったアリピウスは衝撃を受ける。彼はアウグスティヌスが自分を咎めているのだと取っているが、アウグスティヌスは彼のことをなんとも思ってはいない。アウグスティヌスが言うには、矯正の仕事は明らかに(aperte)神の仕事に帰せられるべきなのである。

 

 第八巻第六章。ここでは幾分「陰謀めいた」文脈でこの語が用いられている(あるいはむしろ、アウグスティヌスの教えが、彼がそのなかで育ち叛いた異教文化に勝利を収めることがなかったら「陰謀的」とみなされるのであろうが)。アウグスティヌスと友人(魅力的に「僕も」と言うアリピウス)は皇帝の宮廷で高い地位を占めるポンティキアヌスを歓待していたが、ポンティキアヌスはアウグスティヌスが異教の修辞学教師として使ったのだと思ってそこにある本を取り上げる。彼はそれを開け(そこでaperuitという語が響き渡る)、それが使徒パウロのものだとわかって驚く。続いて彼は自分が洗礼を受けたキリスト教徒であることを打ち明けて今度は彼らを驚かす。この本を開いたことはアウグスティヌスの発展において主要な契機である。ポンティキアヌスはエジプトの僧侶、アントニウスキリスト教修道僧、「実り豊かな荒野」(ubera deserta eremi、「豊かな」という語は語源的に家畜の乳房、粥、乳首、胸などと関係する)に棲まう隠者たちの功業を語った。ポンティキアヌスはよい暮らしをしていたが、根本的には自分の仕事を軽蔑していた。続く議論で、皇帝に仕えることによって得る報酬と神に仕えることによって得る報酬を比較できないことが論じられる(「仕える」はどちらもmilitiaという語である)。ポンティキアヌスには、宮廷で最高位に上がったとしても皇帝の大臣の一人になるだけである――しかし、神を友にしようとするだけで、人は既に神の友人となっている、という言葉が伝えられる。

 

 他にも「開く」(aperire)という語の変奏が第八巻には様々にあらわれる。意味深いことに、この巻は回心が重要な問題となる巻なのである。しかし、第八巻の詳細を考える前に(それまでの主要な特徴を考えに入れながら)、第六巻第四章の一節、アンブロシウウスが例えをもって解釈することで聖書を彼の前に「開いた」箇所に立ち戻って見てみよう。彼は、身体に関わらないような「精神的なもの」を考えることができないので、まだ躊躇っているという。しかし、ここで強調すべきなのは、彼は自分を「宙づりの状態にいる」(suspendio・・・necabar)と語っていることである。というのも、宙づりにされた彼の観念とその解決は、最終的には彼の諸動機をまとめ上げる最も堅固な定式となってあらわれるだろうからである。

 

 我々が言っているのを要約しよう。『告白』の最後の言葉は「開けゴマ」的な語だと言える。その言葉は別の文脈でも見いだすことができる(その幾つかは挙げた)。後の分析が明らかにするように、これは戦略的な使い方であるゆえに、宙づりをあらわす部分に関連するところは特に注目した。

*1:(1)第十二巻の冒頭でアウグスティヌスはこの文章を形を変えて引用している。その文は終わりで引用されたのとは異なり、不適当な変更がなされている。また、ウルガタ聖書からの以前からの言及を含めて、テーマによる変奏に似た最終的仕上げがなされている。