ブラッドリー『仮象と実在』 205

[内的道徳性としての善。]

 

 しかし、この問題についてこうした考え方では不満足な部分があると思えるので、より詳細にわたって考えることにしよう。より洗練された意味合いで、我々はまだ善を扱ってはこなかった。(1)すでに知ったように、善は道徳性であり、道徳性は内部のものである。外部、自身、あるいはその内部にある単なる結果を達成することにあるのではない。というのも、結果は本来与えられているものに依存し条件づけられており、本来の欠点や有利性には人間は責任を持てないからである。それゆえ、真の道徳性に関する限り、実現された産物は偶然でしかない。というのも、多かれ少なかれ、非道徳的な条件によって影響を受け、変更されるに違いないからである。端的に、正当化や非難ができるのは、人間自身からでたものだけであり、気質や環境は自身から来るものではない。道徳性は個人の意志と彼の完璧の観念との同一化である。道徳的人間は、彼が最上だと知ることをしようとするものである。つまり、彼が知っている最上が最上ではないなら、道徳的にいえば、問題を外れている。達成するのに失敗し、試みに終わったとしても、それもまた道徳的には関係ない。それゆえ、我々とは異なった時代を道徳的に正確に比較すること、あるいはある時代の道徳や人物が他の時代よりも高いと比較することは困難である。善の完全な本質を含んでいたり、考えつくされたりしているように思われるものには、強く意志的に同一化しようとすることはある。おそらく、このことにおいてのみ、道徳的な責任や不毛が基づいているのであり、我々の不死へのひとつの希望はそれが可能にする。

 

       

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*1:

 (1)こうした見地からの道徳性は、もちろん、最近発達したものであるが、その起源についてなにかを述べるつもりはない。道徳性一般の起源については、直接的な社会的問題があまりに強調されすぎているとだけは言えよう。確かに、個人を孤立させることはまったく擁護できない。しかし、他方において、道徳性の唯一の根を個人と社会との直接的な同一化にのみ求めるのは間違っている。すでに述べたように、道徳性はその目的においては制限されない。同じように、その始まりだけに限定されるものではないことも付け加えねばならない。私がここで述べているのは、自己評価と自己非難、あるいは被造物自身の満足や不満足についてである。この感情は、被造物が観念を形成し、望むなにかをしたり楽しんだりすることができ、その観念を自身の実際の成功や失敗に関連づけることができたときに始まる。たとえば、獲物を逃がした動物の不満な思いは、確かに、いまだ道徳的ではない。しかし、にもかかわらず、道徳性の最も重要な要素である自身の判断は萌芽に含まれるだろう。この感情は望まれるあらゆる行動、活動、成功の観念には無関心に結びついている。もし私がそうした観念に対応することを感じたり考えたりすると、私は同時に自身に満足する。たとえ幸運によるだけだとしても、私は自身を賞讃し評価する。すでに見たように、賞讃がすべて道徳的ではない。また、その起源においてすら、すべてが直接的に社会的ではない。しかし、この問題は十分にページを割いて行うべきで、ここでは不可能である。