ケネス・バーク『宗教の修辞学』 16

Ⅴ.途中部分(a)

 

(基本的日付。幼児期に帰せられる動機。神へ向かう食物のイメージ。修辞家という職業からくる口唇の強調とのあり得る関係。幼児期の「罪深さ」。「好奇心」の罪。むち打ち。いい意味での「好奇心」。倒錯。「破滅」。大都市の洗練とマニ教徒としての始まり。経済的動機。嫌悪すべき仕事。経済的な動機に加わる神学的次元。)

 

 アウグスティヌスは354年北アフリカに生れた。伝説によれば、彼が痛烈に非難したペラギウスは同じ年に生れており、まさしく対称をなすこととなる。彼は386年にキリスト教に回心し、司教になった直後397年に『告白』を書いた。『神の国』は410年のゴートによるローマの略奪に続く410年から426年のあいだに書かれた。430年に死んだ。

 

 彼の父のパトリシウスは異教徒であったが、死の直前、アウグスティヌスが十六歳くらいのときに改宗した。母のモニカはいまは聖人として認められており、敬虔なキリスト教徒で強い意志を持った女性であったが、決して横柄になることなく、献身的な行動と祈りでもって、命令よりも嘆願によって自分の路を切り開いたようである。アウグスティヌスは彼女を従順な妻だと言っているが、また母は自分が神を父として育って欲しいと願ったとも言っている。アウグスティヌスキリスト教徒になるというのは母親の強い気持ちだったが、若いときには洗礼を受けず、というのも、彼女の考えによれば、洗礼によってそれ以前の罪はぬぐい去られるが、洗礼後に罪が犯されたとき、それは最大限のものとして刻みつけられるだろうからである。大きな病気をし、死ぬのではないかと恐れて、彼が洗礼してくれるよう頼んだときも、彼女は敬虔なる意図に従ってそれを遅らせたのだった。

 

 さて、それでは各段階である。

 

 第一に、彼が「知った」(noram)のは、吸うこと(sugere)、休むこと(adquiescere)、泣くこと(flere)であった。冒頭の祈りで神に使われている「満たす」という言葉(あらゆる創造物を満たすものである)は、ここでは、文字通り、彼を養ってくれる女性の胸に満ちた(ubera implebant)ミルクに用いられている(第一巻第六章)。その関連性が即座に確立され、神の豊かさはあふれ出て幼児にまで至るのだという発言になる。幼児期と成人の動機づけの似たような関連づけは、神の慈悲による「慰め」(consolationes miserationum tuarum)と、人間の乳による「慰め」(consolationes lactis humani)とを較べている箇所にも明らかである。また「豊かに満ち流れだす乳の泉」(in fonte lactis ubertim manante atque abundante)という言葉は、それより以前神を「慈悲の泉」(fons misericordiarum)と述べたことを思い起こさせるし、後に(第九巻第三章)泉ではなく豊かに乳の流れだす山(in monte incaseato,ninte tuo,ninte uberi)として言及されている箇所のことも示唆している。第四巻の冒頭の祈りにおいて、マニ教の食物と聖性についての考え方を嘲笑い、自分は神の乳を吸い、決して消え去ることのない食物として神を食していると述べている。特徴的なことに、肉となった神の言葉のことを語る際(第七巻第十八章)、神の知恵(sapientia)が我々幼児に乳(lactesceret)を与えるのだと言っている。そして、回心の近くでは、神への思いを匂いはしないが食べることはできない食欲をかき立てる食物にたとえている。

 

 彼の心のなかでは神の観念と養育の観念がこうした形象において厳密に一致していると考えるにしろ、あるいは単に聖書の伝統に従ってつくりあげられたものとするにせよ(例えば『ペトロの手紙一』2:2,『ヨハネによる福音書』6:27)、その動機は彼の専門であった修辞学者の強い口唇的な性格に合致しているし、彼の言葉に対する感覚(「貴重な容器として選ばれたもの」)から、神の言葉を「我々の償いの酒杯」だとするキリストの考え方にも適合している。アウグスティヌスはまた、間接的にではあるが、言葉についてもつ強い口唇的な連想を、アンブロシウスが説教師としての偉大な才能はともかく、一人のときには眼だけで「声と舌は沈黙したまま」(quiescebant)読書する習慣だったと注釈することに示している。派生的には、アウグスティヌスがおそらくはストア派の考えを容れ、あらゆるものを物質の濃度の相違と考える初期の考え方を直接に導いて捨てさせたのがアンブロシウスであることを思い起こすこともできる。

 

 彼が子供時代を生き延びたと言うとき、つまり生きてはいたが死んだ状態だったと言うとき(後に思春期についても用いられる表現方法である)、この比喩は単なる文学的意匠以上のものをあらわしていないか考えるべきだろう。いずれにしろ、彼はそれを幾分プラトン主義的な、子供として生れる前の、記憶のない子宮内の時期(intra viscera matris meae)に先立つ生の可能性へと考えを移すのに使っている。

 

 彼が考えるところによれば、子供は怒りや嫉妬さえあらわすゆえに、幼児期というのは本質的に罪深いものである。子供のいわゆる「無垢」は意志的なものではなく、肉体的な弱さからきているにすぎない。彼らは望み可能であっても他を害することができないという意味においてのみ「無垢」である。「子供の堕落」や「原罪」に考察が向ってもよかっただろうが、アウグスティヌスはそうした問題をここで論じてはいない。純粋に形式的な観点から判断すると、自分の幼児期にさえ罪深さを見いだし、幼児期において、そのときは理解されなかったにしろ非難を受けるに足ると結論づけることで、『告白』に一貫性を与えている。そして、彼が言うには、大人になって、おっぱいではなく(non quidem uberibus)年齢に見合った食物(escae congruenti annis meis)を与えられないからといって泣き叫ぶとすれば、その人間は嘲笑され非難されて当然であろう。驚くべきことに、ここでのラテン語は、動詞の二格はどちらにでも解釈できるにもかかわらず、条件法(「私は嘲笑され非難されるべきであろう」)ではなく、直説法単純未来である(「私は・・されるであろう」deridebor atque reprehendar)。

 

 次にくる主要な罪は、好奇心と遊び好きからくる不服従である。こうした「好奇心」は、それについて子供を叱る大人を特徴づけるものでもある。子供が遊んでばかりいると罰せられる一方で、大人もまた「仕事」という玩具で無駄な時間を過している。「玩具」あるいは「無駄な」という語(nugae)は後に恋人についても使われるだろう。

 

 この段階において目立っているのは、教育の標準的な一環として、学校で与えられたむち打ちを強調していることである。むち打ちという習慣は一般的に「称讃」されており、むち打ちを勘弁してくれるよう神に祈る彼の姿を見て、両親は、大人が非常に苦しいときに神に祈る者を見て笑うように彼を笑った。「称讃」と「神」との関わりはここでは明確だが、嘲笑という要素が加わることで混乱する。いずれにしろ、この経験によって懲罰とむち打ちとが彼において強く結びついたことが見て取れ――こうした形象群は、原則として、第四巻の冒頭、神によって「救われるために打ち倒され」、「打ち砕かれた」ことのない傲慢で挑戦的な嘲笑の背後にあるものであろう。

 

 その当時の標準的な異教徒の教育における幼児期の訓練について論じる際、彼に特徴的な悪い意味の語「好奇心」をいい意味で使っている箇所がある。彼はいかなる「苦しみ」(cruciatu)もなく、心の赴くまま(advertendo、「向う」語族の一つである)学んだので、ギリシャ語よりもラテン語を好んだと言っている。ギリシャ語が母国語で、ラテン語を強制的に勉強させられたのなら、間違いなくギリシャ文学の方を好んだだろうと彼は言っている。というのも、「自由な好奇心」は、「恐れを伴った強制」(meticulisam necessitatem)よりも学習の助けになるからである――しかし、特徴的なことに、次に彼は、そうした拘束も、教師の鞭による殉教の試練であり、道にはぐれた者を元に戻すために必要な苦さとて神の法が導き入れたものである限り、よいものであると主張している。

 

 思春期のアウグスティヌスの逸脱に関してみよう(当時十六歳はおそらくはまだpueritia少年に分類されただろう)。それは完璧に「道を踏みはずした」段階であり、間違いなく充満という神の観念と対照して、欠乏の場(regio egestatis)とたとえている。罪(第二巻第九章)は、欺くことに嘲笑的な喜びを見いだす仲間との共謀という考えとも結びついている。それは悪のために悪を望むことであり、アウグスティヌスが常に悪と結びつける最も極端な事例である。神を探し求めることだけをすべきであるのに、何かをそれ自体のために探し求める。「踏みはずし」をこう定義するなら、結果的にそれは自律性という観念を完成させるものとなるだろう、「完成」という語をイロニーとして用いることができればであるが。

 

 「逸脱」は「破壊」とも関わりをもつが、「破壊」(eversores)はおそらくは彼がカルタゴでつきあい、人を嘲笑し欺すことや「内気な異邦人たちを攻撃する」方法を見いだすことに大きな喜びを見いだしていた乱暴な学生たちをさすだろう。この知的ギャングたちへの言及とカルタゴの修辞学学校でトップに立ったときの「傲慢さ」について述べることが混じり合っているので、彼が自分の仕事を「破壊」とを同一視していると結論づけることができよう。

 

 カルタゴを不作法な色事のごった煮あるいはるつぼと呼ぶとき、彼はある種の冗談を意図しているのかもしれない(Karthago-sartago)。いずれにしろ、悪い意味における自律性の原理は、「愛を愛する」(amabam amare・・・amans amare)形を取るようになり、優雅にかつ都会的elegans et urbanusに考えることを望み、「友情をみだらな欲望で汚した」。明らかにこのときの彼の一番大きな野望は洗練されることであった。キケロを称讃するものとして、彼はキリスト教徒を嘲笑した(inridebam)。

 

 だが、嫉妬、疑惑、恐れ、怒り、喧嘩によって、彼は灼熱の鉄棒で打たれたかのようだった。マニ教への大きくなる関心によって、既に彼のよりまじめな性向は明らかになり始めていた。アウグスティヌスマニ教との長い関わりは、キリスト教へといたる注目に値する必然的な段階として弁証法的観点によって扱うことができるが、彼の見方は後のマニ教徒との激しい神学論争によって色づけされている。(マニ教とは彼にとって、熱心な元共産主義者共産主義に対する関係にあたるものだった。)

 

 大都市の洗練を求めた動機を振り返って、彼は(修辞的な平行関係によって)アエイネスの愛のためにディードーの死を泣き悲しむが、神を愛することに失敗し自らの身を棄てることを泣き悲しまない者たちについて書いている。会話におけるほんの僅かな野暮さや間違いを恥じるにもかかわらず、救いの定めについては全く無関心で、自分たちの下品な振る舞いを見事な文体で描きだし称讃を得ることに誇りをもっている。彼は称賛の約束と罰への恐れが世俗的な詩の訓練に用いられること、あるいは、彼自身神の称讃が自分の心の「若芽を伸ばす助け」(suspenderent palmitem cordis mei――ちなみに、ここにもう一つの「重み」あるいはpomdus重荷の同族の語群があり、後に、目立った形で、彼が「重荷」と「愛」とを同一視することからも注目に値する)であるのに、偽りの熱情で述べ立て称讃されたことを憤っている。

 

 彼があからさまに言葉と文法の商売としていた修辞的優雅さの探求は、経済的動機に直接に通じていた――もし我々がアウグスティヌスの救いへの関心を、もっぱら「魂のみ」に関わるものだと見るなら、我々は彼について誤った観念を持つことになるだろう(初期の神学論争一般とともに)。高い権威者がある説の破門を宣言するとき、通常それは、その説の主張者が自説を撤回したり、別の宗派をつくるほど強力にならないように、その一派の地位や職を奪うことを意味する。神学論争の背後には仕事場を争う戦いがある(神学論争が仕事場を争う戦いに還元できると言っているわけでは決してない)。同様に、アウグスティヌスの探求がかけ離れたように思える経済的用語の還元されるわけではないが、彼の全体としての動機づけにおいて強い経済的要素があるのは明らかである。というのも十五年近く、彼は嫌悪すべき仕事に就いていたのであり、自らそう言っているからである。

 

 例えば(第五巻第八章において)、彼はカルタゴでの職を諦めローマへ行った「最大にしてほぼ唯一の理由」は、学生たちがあまりに放縦であったからだと言っている。彼の描く教室での哀れな規律は、秩序を守ることが困難な現代の教師たちには慰めになるだろう。法によって禁じられているはずの混乱が、と彼は言う、慣習によって認められている――そして、教師として苦しんでいる学生たちの放縦こそは、学生であるとき自分が耽っていたことだとわかったとき、彼はローマへと旅立ち、そこでは状況は全く違うだろうと確信していた。

 

 同様に(第五巻第十二章)、その後ローマでの仕事を辞めミラノへ赴くが、それは学生たちが行なった「邪曲」、集団で教師の謝礼をだまし取ることがあったためだった。彼は彼らを憎んだが、と彼は言う、「完全に憎んだ」わけではなかった。(つまり、彼は彼らの振る舞いを原理に基づいて憤ったのではなく、個人的に被る不便のために憤ったのである。)

 

 また(第六巻第六章)、修辞学者として、皇帝に対し不正直な賛辞を贈る準備をしているときには吐き気を催すような嫌悪感を抱いた(にもかかわらず、この異教徒としての仕事は、『告白』の我-あなたの構造にに脈打つ称讃のスタイルを発展させるのに役立った)。彼が言うには、そのとき神は彼の世俗的な栄誉、富、結婚に対する欲望を嘲笑った(inridebam)。そして彼は、自分の悩ましい野心と、同じ日に羨望をもってみた、おどけた酔っぱらいの物乞いの束の間ではあるが確かな喜びを苦々しく較べる。

 

 また(第六巻第十四章)、回心にいたる試行錯誤の終わり近く、十人近くの仲間である種の共産主義的な集落をつくり、安楽な隠遁生活を送ること(remoti a turbis otiose vivere)を計画した。その集落には何人かの金持ちが含まれており、特に彼の友人のアリピウス、そしてロマニアヌスがいて、彼の説得はその財産が抜きんでて多かったために特別な重みを持っていた。しかし、男たちが、現在の或は将来の女性たち(mulierculaeという幾分曖昧な言葉が使われている)がこの計画をどうとるかと考え始めたときに、計画は粉々になった。そして、神は彼らの相談を嘲笑った(deridebas)のである。

 

 しかしながら、と彼は続ける、やがて神は手を広げ(aperturus manum)、魂を祝福で満たして(impleturus)くれた。

 

 しかし、神の取りなしへと思いを巡らせることは、経済的原因に言及するときのすべてに特徴的なことであった。例えば、彼はローマでよりよい職に就くためにカルタゴを意識的に発ったのだが、彼は、自分がすべてを精算するよう決心するため、神が彼のためにカルタゴを悲惨な状況にしたのだと言っている。同様に、ミラノでよりよい職に就くために意識的にローマを発ったのだが、回心の後で彼は、神が彼の霊的な向上のためにそれを計画したのだと推測している。というのも、ミラノで彼は有名なキリスト教司教であるアンブロシウスと知り合うようになったのであり、彼を「父としてpaterne」また「監督者としてepiscopaliter」受け容れてくれたからである。アウグスティヌスがエピグラムとしてまとめているように(第五巻第十三章)、彼は神によって意識することなしにアンブロシウスのもとに導かれたが、それは彼がアンブロシウスによって意識して神のもとに導かれるためであった(ad eum autem ducebar abs te nesciens,ut per eum ad te sciens decerer――異教の雄弁家なら誰でもこの文の構造を称讃するだろう)。同様に、人を教え導くためでなく単に喜ばせる目的で喜ばせようとし(quaerebam)、讃辞の雄弁を揮っていたときのことを思いかえして、『箴言』の20:15に言及し、神の懲らしめの鞭で打たれたと締めくくっている。このパターンは、第一巻第十八章で、世俗的な野心について語っているときに示されており、一つの文で「探し求める」が三度使われ(quaerentem,quaesivi,requiram)、二重の動機によって神を探し求めている魂を深淵から(de hoc inmanissimo)神が「引き出して」(erues)くれると述べられる。(彼はここで、後にペラギウス主義者と論争になる恩寵と自由意志の問題について考察しているわけではなく、その説では人間は神が既に人間の方を向いているのでなければ神の方を向くことはできない。)