ブラッドリー『仮象と実在』 207

[道徳性の要求は、自らを超えでて宗教にまで進む。]

 

 道徳的ではないものが道徳的だということは逆説的だが、有効に働いている原理であり、いたるところに見られることでもある。宇宙のあらゆる個別の側面は、もしそのように主張するなら、それ自体より高いものを要求しつづける。そして他の現象と同じく、善は実行されると、それに含まれざるを得ない。だが、善は後戻りできない。というのも、一度その初期の段階に同一化すると、我々が既に到達した地点へ再び駆りたてられるからである。問題は、多様な段階にあり、あらわれをもつ道徳性がすべてより高次の存在の形式に含まれ、従属したときに解決されうる。別の言葉で言えば、目的は、道徳によって探られるものではなく、道徳の上位、また超道徳にある。満足を要求する道徳的要求についての一般的見解を得てみよう。そのひとつは、道徳性と善との乖離を押さえつけようとするものである。人間の優雅さ、美、力、また幸運さえもがすべて否定すべくもなく善であることを見てきた。そうした贈物は欲せられたものではなく、認められることもないというふりをしても無駄なことである。美が美徳のうちに数えられるのは、結局のところ、道徳的な本能である。というのも、このことを否定し、美徳を通常道徳的ふるまいとされているものに制限するなら、我々の立場は維持しがたくなる。我々は認められた原理によってさらなる否定に進むとともに、美徳は美徳ではなくなるまで世界から後退する。外側とのいかなる関連によっても損なわれることのない内的な中心を探し、あるいは、別の言葉で言えば、すでに見たように、意味のないことを追い求めることになる。内的なままにとどまっているすばらしさはなんでもない。身体的なすばらしさは善であるか、どこにおいてもまだ現実化していない美徳を見いだして満足しなければならない。(1)それゆえ、美徳は多かれ少なかれ外的なものであり、多かれ少なかれ内的で霊的なものである。我々は美徳の種類、程度、異なった水準を認めねばならない。そして、道徳は一般的な善の特殊な形式とは区別されねばならない。それはそれらのうちでもっともすばらしいもののひとつであるが、そのすべてを含むわけではないし、そこから別れて独立した存在を形成できない。道徳性はそれ自体で自律し、生来善である贈物によって不可欠に成り立っているのでなければ、非実在だと証明される。そして、我々は道徳性が贈物だと知らされることになる。もし身体的な美徳の善が否定されるなら、ついには善そのものが消滅してしまう。端的に、道徳性とはあらゆる優雅さが善であり、それ自らの世界と善との世界とのあいだが分割されることで破壊される。

 

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 あらゆる人間的な優美さはまさしく善であるが、同時により高い位が内的生命のためにとっておかれるべきだという道徳的要求がある。また、善は完全な勝利を収めるべきだという道徳的要求もある。あらゆるものの欠陥や矛盾は取り除かれ、完璧な調和に取って代わらねばならない。もちろん、あらゆる悪は規範を超えたものであるはずであり、善に立ち戻さねばならない。しかし、道徳性の要求は異なった側面ももっている。というのも、そうした善があるとすれば、すでに見たように、不調和が善の本質なのであるから、矛盾がなくなることはあり得ない。かくして、道徳性が存在するとしても、それが悪の終焉とはなり得ない。また、自己肯定と自己犠牲の二つの側面も残ることになろう。それらは従属的なものに違いないが、異なった性質を完全に失うことはない。道徳性そのものはこれらの側面の到達不可能な統一を要求し、その探究においてより高次の善に導かれることは自然である。最終的には我々が宗教と呼ぶものにいたる。(1)

 

     

*2

 

*1:    (1)勇気のような美徳を取り上げて、その道徳的善を単に身体的なものだとして否定するなら、最後には至る所で善を否定せざるを得なくなる。ここでも再び、ある意味単なる善を超えた美徳がいかなるものであるかを見ることになろう。道徳的観点を正確に捉える形式はもちろん不可能である。

*2:

   (1)宗教の起源はここでの我々の関心事ではない。宗教は恐れと讃仰あるいは是認に二つの起源をもつように思える。後者は高次のあるいは道徳的感覚としてとらえる必要はない。驚異の感覚や好奇心は、他の感情の助けを借りるのでなければ、宗教的ではないように思える。宗教の二つの主要な起源のうち、一方はある場合に活発で、他方は別の場合に活発となる。感情は意志でもあり、多様な対象に自然に結びつく。宗教の起源を常に一つであるに違いないとするのは、根本的に誤っていると思われる。

         我々が関わっているのは、宗教が我々自身のなかでなにを意味しているかということにある。宗教が最終的には他のなによりも意味深いものだということを理解しない限り、この疑問には答えることが不可能だという結論に到った。それは部分的には単なる誤解に基づいている。主として知的で、美的なものは、最終的に宗教の外にいることを認める。しかし、最終的には、頑強な食い違いに出くわす。宗教は実際的に「他の世界」あるいは一般的に超感覚的なものとの関係だとするものがいる。たとえば、死後の生であるとか、「精霊」との交信の可能性といった疑問は本質的に宗教的なものだと思われる。そして彼らは、宗教的感情は「我々の世界」の対象に向けて存在しうることを否定する。宗教をもつためには、特殊で特別な関係をもたなければならないと主張するものもいる。そしてこの関係をもち、それが「他の世界」の対象であるかどうかで、宗教を得たことになる。死後の生、精霊とのおしゃべりや魔術といった可能性はそれ自体宗教とほとんど関係ない。彼らがそう主張するのは、見えないものに対する感情が偶然にも、一般的に宗教的なものだからであり、宗教は正当な原因もなしに部分的には狭められ、部分的には拡大されている。後半の部分は正しいと考えるが、同じ観点から対立する部分については無視することにする。l

         それでは宗教において一般的なこととはなんだろうか。恐れ、あきらめ、讃仰、是認の固定化された感情で、対象はなんであろうと、この感情がある種の力を得て、ある程度の反省によって確かなものとなることにある。しかし、同時に、宗教においては、恐れと是認がある程度常に結びついていることも付け加えねばならない。宗教においては、恐れられているものを喜び、あるいは少なくとも意志を従わせねばならない。この対象に対するふるまいが認められ、その是認が再び対象を性質づけることになる。他方において、宗教においては、是認は献身を含んでおり、献身はなんらかの恐れがなければ、疎外される恐れだけであってもなければほとんど可能ではない。

         我々が宗教と呼ぶものに、どの程度こうした感情があるのだろうか。正確にその地点を示せるのだろうか。それは可能ではないと認めねばならないと思う。しかし、一般的には、我々自身が他の場合と比較して、力がなく、価値がないと思われる場面である。そんなときなんの考えもなかった我々に対象が宗教を吹き込む傾向がある。そうした対象が数多くあれば、多神教徒となる。しかし、唯一のもの以外の残りがなんの重みもないときに、我々は一神教に到達する。

         それゆえ、どんな対象であっても、極度の恐れや是認を感じるときには、献身が伴うようになり、神性を有することになる。そしてこの対象は、もっとも力強く、他のどんな意味でも神性を必要とはしない。生においてこのあるいはあの人物、対象、探求を神とするとよく言われる。そうした場合、我々の姿勢は宗教と呼ばれるべきである。たとえばそれは性的、あるいは親の愛にもしばしば見られる。しかし、宗教が始まり、終わる正確な地点を固定するのはほとんど可能ではない。

         この章において私は宗教をその最も高次な意味で取り上げている。まったくの善の完全な対象に対する献身として用いている。女性やある探求への献身といった不完全な形の宗教は、同じ具合に存在できる。しかし、もっとも高次な意味での宗教は、ひとつの対象以外ありえない。そしてまた、宗教が十分に発達すると、この対象は善でなければならない。それ以外のものだと、恐れることもあるだろうが、反乱、嫌悪、あるいは軽蔑すらあり得る。道徳的にひれ伏すことはすべての宗教に存在するわけではない。