ケネス・バーク『宗教の修辞学』 18

Ⅶ.悪はどこから発するか

 

(全能の善なる神によって創造された世界において悪をどう扱うかの問題。形象:「食」としての悪。善が単一体として、悪が組として扱われた段階。悪と糞便との連想。アウグスティヌスの悪の非実在性についての見解のロゴロジー的等価物。「意志」と否定性。悪を語ることが支配を語ることに移る。キリストにおいて大きくなっていく信仰についての言及。その教説においてキリストの犠牲の観念を巡って形成されていた対称性を弱めることになったペラギウス派との戦い。回心以前のアウグスティヌスの実験についての再検討。プラトン主義は最小限の悪でやっていける。要約。「探求者」としてのアウグスティヌス。)

 

 「罪」の章と「回心」の章とを引き合わせる前に、アウグスティヌスの段階においてもう一つの問題を考える必要がある。それは苦しみ格闘した悪の問題であり、回心の「決定的地点」をしるしづけるヒステリックな悲しみが近づくにつれて新たな強烈さによって彼を悩ませた。

 

 一般的な意味で、「悪の問題」と言われるのは、通常次のような疑問である。どのようにして悪はこの世界から生れてきたのだろうか、と。しかし、アウグスティヌスの神学ではこの疑問は全く逆である。どうして悪は世界に入ることができたのであろうか。神が善であり、神の創造が善であるなら、「悪はどこから発するか」(Unde malum?)。

 

 「そして、私は悪の源(unde malum)を探し(quaerebam)、間違ったやり方(male)で探した。こうした私の探求において(in ipsa inquisitione)、私は悪を見いださなかった(第七巻第五章)。悪が自分の外側にあるというマニ教の教えは、自分を二つに分断し対立させる(adversum me...me diviserat)不敬虔なものである。しかし、個人の外、自然そのものの力に道徳的悪を見るマニ教の教義を廃棄することで、定義上善である創造のなかでどうやって悪は生じ得たのかを説明する問題ににべもなく向かい合うことになった。もし神がすべてを満たす(implet)なら、そうして悪の根や種が可能なのだろうか。

 

 第五巻、「憐れみ深いあるいは復讐心の強い」(aut miserans aut vindicans)神への祈りのあとで、二十九年の末の仮説を書きつけており、彼の悪についての理論は(少なくともその比喩形象については)マニ教についての関心から生じていることが見て取れる。彼らは日蝕を正確に予知する方法は学んだが、自分たちの教義に光が欠けていることに気づくことはなかった、と彼は言う。「日蝕の」ラテン語はdefectusで、マニ教徒は、神の光のもとでは不完全なるものと(deficientes a lumine two)して描かれる。つまり、彼らは部分的な日蝕のもとにいる。

 

 かくして、マニ教の教義にある二つの対立する力、同じように実体があり普遍的な戦いを繰り広げている善と悪(光と闇の力)とを対照して、改心後のアウグスティヌスは、善だけが実在、動力因であり、悪は不完全な原因、つまり、善のに過ぎないと主張するだろう。かくして、善の世界における善の不在を意味するだけの悪の概念は、永久に燃え立つ太陽が大いに輝かせている世界において光の不在を意味する暗闇からアナロジーを借りて補強することができた。

 

 別の箇所(v,vii)で、いかに神は人間の生の段階を定めるのかを論じるところで、アウグスティヌスは、救いは神が自ら既におつくりになったものをもう一度つくりなおすこと(reficientem quae fecisti)を通じてのみ為される、と言って、豊富なラテン語の接頭辞を使って議論を締めくくっている。この並びではde-ficient,re-ficient,(ef)ficientが区別される。しかしながら、我々の論点は、それらの語が一般的に「つくる」(facio)という語の種類であり、彼が悪に割り当てた語(deficiens)は光の不在でしかない闇という考えから想を得て、「脱-つくること」「非-つくること」となる(光だけが現実的な力を持ち、闇は光の源泉にある力をまったく損なえない「食」でしかない)。この隠喩的な補強は、真理と光とを等しいものにする伝統によって更に強いものとなるだろう。

 

 美と適合についてのエッセイでは、アウグスティヌスは単なる美学とマニ教的神学との中間にとどまっているように思われる。彼はそこでは平和と美徳を、愛と統一を等しいものだとしている。そして、不和と悪徳を、憎しみと分裂を等しくした(IV,XV)。彼は統一をモナドと呼び、分裂をダイアドと呼んだ。彼は統一を「性のない」理性的な魂、変わることのない善と考えた。しかし彼はまた、分裂したダイアドをある種の物質と考えていた(この点において、明らかに彼のモナド-ダイアドの区別は、マニ教的な傾向がある)。不調和なダイアドは、情念と強い欲望(libidinem in Flagitiis)が特徴なので、sine ullo sexuではないと想定されているようだ。

 

 食のイメージはまったく別の比喩形象からも裏づけの力を得ている(VII,XVI)。悪を人間の意志にあるものとして神を弁護したとき、彼は意志を「その内蔵を放り出して内的に肥え太っていく」(proicientis intima sua et tumescentis foras)ものと語っている。ここにはアウグスティヌスの内的なものについてのテーマが途方に暮れるような形で変奏されている。最初の表現は明らかに『集会の書』10:9が間接的に参照されている、「金銭を愛することほど邪なことはありません。彼は自分の魂でさえ売りに出すでしょう。生きている間、彼は自分の内蔵を放り出し続けるのです」(proiecit intima sua)。ここでは、「もっとも内部にあるもの」(intima)が「もっとも低劣なもの」(infima)と等しくされている。アウグスティヌスの文章では金銭への間接的な言及さえも見あたらないようだ(もちろん、こうしたたとえがとられた『集会の書』の文脈を除けばだが)。Tumescoで通常連想されるのはプライドでふくれあがることである。かくして、悪を変節や性的興奮による肥大と同じような意味づけであからさまに結びつけるようなことはここではこじつけとならざるを得ないが、フロイトの「下水」理論に従えば別で、性と糞尿の働きは比喩形象の領域では容易に混同されるのである。別の場所で(VII.ii)、アウグスティヌスは、神の創造は善から浄化(purgari)が必要である悲惨さへと転じる(verteretur)というマニ教の教義を述べた友人を賛意を表して言及している。それは忌み嫌われるべきで、吐き出されるべきである。いずれにしろ、『集会の書』に間接的に言及したこの一節は、明らかに悪を意志の「倒錯」(voluntatis perversitatem)に位置づけている。

 

 アウグスティヌスの息詰まるような感覚は、自由意志(liberum voluntatis arbitrium)に道徳的悪が位置づけられ、善なる神がどうして悪を意志することが可能な人間をつくりだしたのか、あるいは、意志の曲解によって神を誘惑することを望むような悪魔となる天使をどうしてつくりだすのかと問う段階においてあらわれる。

 

 ロゴロジー的には、彼が問題を諾否(「意志することと意志しないこと」———— velle ac nolle)の選択の問題に還元したとき(VII,iii)、我々は人間が「汝すべからず」をお互いに言うばかりでなく、良心的に自分自身に対しても言えるような、言語学的驚異、否定的なるものが生まれてくるのを歓迎して迎えることとなろう。悪の非現実性についてのロゴロジカルな見方がアウグスティヌスの神学的教義と平行してあることの真の意味がここにある。道徳的悪は自然の存在の「実在」から来るのではなく、否定的なものにはめ込まれた勧告から来るのであり、否定を経由するとは「実在する現実」ではなく、「実在」という意味での「現実」は語の音や姿、それを考えるときに必要とされる神経の振動にしかない。それは「人間が自然に付け加えるもの」であり、行為を差別し定義するものなので(意志と意志しないものを区別する諾否)、その意味においてそれは「意志」の働きである。あるいは、より正確に言うと、次の節で見るように、行為、意志、否定的なものの観念は互いを含むものである。

 

 悪の問題に恐れおののいているこの瞬間、アウグスティヌスは次のような具合に進む支配の範型にもこともなげに突き当たっていた。アウグスティヌスは世界に様々な位置を占める多様なものよりも優位に立っている。彼は神よりも劣っている。彼は神に従っているが、神が創造したものは彼に従っている。神に仕えることによって彼は身体を支配することを得た。もし彼が神にあらがっていたら、彼より劣るものでさえ彼の上に存在し、彼を押しつぶし、息する余地さえ与えなかっただろう。秩序の観念について論じる次の節で十分論ずることになろうが、否定の原理は、法を形成する際の否定の役割からいって支配に本質的なものなのである。

 

 悪の本性について思い悩んだ後、別の地点で(VII,v)、彼はキリストへの信仰が成長していると述べることで言葉を締めくくっている。この言明は、単にキリスト教の悪の教義への途上にあると単純に解釈することもできる。あるいは、彼の問題を解決するには、神による犠牲という観念が必要なのだと示しているともとれる(完璧な生け贄としてのキリストはプラトン主義のロゴスには欠けていた媒介の役割をしている、と彼は言う)。この問題もまた次の節で扱うこととなろう。どちらの観念も(支配と犠牲の原理)「自由意志」とその邪悪な「誘惑」にロゴロジー的に組み込まれている。

 

 改心の後、アウグスティヌスは一方ではペラギウス主義と、他方ではマニ教と力強く戦った。彼らは、ある意味自由に、それとの同一化が人間の救済に必要であるような神による生け贄を明らかに軽く扱おうとしているような党派であった。それゆえ、彼らの「原罪」の否定は、パウロ的な見方によれば、キリストの磔を人間の贖罪に必要なものとする。アウグスティヌスが力強く予定説の教えのなかに打ち建てた神の選びと棄却についての厳格な教義から尻込みする彼らは、代わりに誰でも自由意志を高潔な生活を送ることに決意さえすれば、そしてその決断を守りさえすれば天国に入ることを許されるというある意味穏健な考えを強調している。純粋に世俗的な支配の目的に資する教義として判断すると、ペラギウス主義はあらゆる犠牲の動機づけが一人の神の犠牲において頂点に達するというパウルアウグスティヌス的な強力な対称性に欠けている。この相違は、適度の心地よい住まいと、数世紀にも渡って壮大な儀式と擁護的な動機に基づいた式典をするのに建てられた堂々たる立派な建築との相違に似ている。

 

 アウグスティヌスの長い探求、問いかけ、「審理」を見渡すと、彼はそれについて多くの言葉を費やしているわけではないが、たゆみなく実験を続ける探求者の自画像が見て取れる。幼児の自然さ、子どものいたずら、思春期の逸脱、ローマやギリシャの詩への想像力豊かな熱中、美的な自由主義、乱暴で良心の咎めを受けながらの色事、修辞学者としての大都市での出世主義(教えることと売り込みとの混合)、占星術懐疑主義あるいは体系的な疑い(プラトン学派のスタイルでの)、ストア主義(ローマの支配者に奉じられていた基本的な哲学で、ストア派そのものについては言及されていないが、ストア派的な官僚主義の色合いが強く出ているキケロの『ホルテンシウス』に大きな影響を受けたと語っているので、ほとんど無意識のうちに体現したのだろうが)、「コロニー-思考」(コミューン的な制度をそのまま打ち建てようとするかのような知的連合をそう言えるのであれば)、マニ教プラトン主義、アリストテレスの『カテゴリー論』についての考察にともなう一刷毛のアリストテレス主義もあるが、多様な自然の「実質」についての議論は「単純で変わることのない神」とは関わりのないものとして「それは私になにをもたらそう…」という嘲るような修辞的主張の同じ繰り返しのなかで(IV,xvi)四つの文章に渡って論じられている。彼は精力的にプラトンキリスト教化したので、アリストテレスキリスト教化するに際してはその思想のはじめにある神の無視しか見いだすことができなかった(この仕事は千年の後、アクイナスによって企てられることとなろう)。

 

 アウグスティヌスはあれこれの多くの様々な立場のスポークスマンだとさえ言える。そして、そのすべては彼の成長に生き生きとした力を与えたのだが、彼はそれらを最終的に到達した立場からすると様々な保留や程度の異なる悪意で代表していた。そうしたなかで、プラトン主義は最良であった(あるいは悪い部分が少なかった)。しかし、それが物質的なものから離れ、非物質的な真理への探究(quaerere incorpoream veritatem)へと進む助けとなったとしても、キリスト教徒として始めていたらプラトン主義者であることは反対の方向、つまりキリスト教から離れるように作用しただろうと想定している(VII,xx)。かくして、と彼は言う、神は彼を最初にプラトン主義に出会わせたのであり、それによって彼の記憶に出しゃばり(プラトン主義者としての知識に対する誇り)と信仰(キリスト教としての)の相違を刻みつけたのである。彼はこの観察が他のものについて当てはまるかどうかは言わない。彼は彼の道程が神の企図に合致したものであるという考えを超えるような結論は引きださない。

 

 結局のところ、幼児期から改心の瞬間に直接つながるような様々な出来事をまでをまとめると、我々がもつに至るのは(VI,x)、「良き生を熱烈に探求する者」(beatae vitae inquisitor ardens)と「もっとも困難な問題をもっとも鋭く精査する者」(quaestionum difficillimarum scrutator acerrimus)である。彼の精神は「尋ねることと休みなく議論すること」(ad quaerendum intentus et ad disserendum)で占められていた。こうしたことが突然の改心に先立つ自己把握だった。またある種の不安についても言及されており、それは最期までぬぐい去ることはできないだろうし、いかに静穏のように思えても、それは医者が危険だと言い、母親が精神的健康にたどり着く前に通過するであろうと予言した、かの前段階での動揺と較べられるものなのだ。

 

 さて我々は「よこしま」についての第二巻と「改心」についての第八巻を直接に対照して考える準備ができた。我々が考えようとする改心は、圧縮された企図という観点から見られるものである。よこしまについてはアクイナスの『神学大全』流の問答スタイルで扱ってみよう。