ブラッドリー『仮象と実在』 209

[それは不整合であることが証明され、自らを超え出る現象である。]

 

  素っ気なく、欠陥のある概略ではあるが、善から矛盾を取り除く宗教の主張について述べた。我々が考えるべきなのは、そうした主張がどの程度まで正当化されるかということである。宗教はあらゆる生の側面を含み、調和へと還元するように思われる。それはあらゆる細部を包含し、浸透しているように見える。しかし、最終的に、我々は矛盾が残ることを認めざるを得ない。というのも、全体が善だとしても、調和的ではないからである。そして、もしそれが善を超えるならば、宗教も超えたところに行きつくだろう。全体は実際に善であり、同時にそれ自体を善にする。その完璧な善も、その争いもあらわれに降格することはない。しかし、他方において、それら二つの側面を一貫したものとして結びつけることは不可能である。たとえ宗教の対象が不完全で有限なものだとしても、矛盾は残るだろう。というのも、信心によって欲せられたものが完全に達成されたとしたら、信心の必要、それ故その実在は終わってしまうだろう。端的に、対象以上に自己は、強い性的愛に再び見いだされる強い食い違いを生き残らねばならず、また生き残るべきではないあらゆる種類の善は内部からそれ自身の本質を超えたところに駆りたてられる。それはあらわれであり、その安定性はぐらつきによって維持され、その受容は主として妥協の産物である。

 

 宗教の中心点は信仰と呼ばれるものにある。全体と個人は信仰においてのみ完璧で善である。進行は単に一般的な真理を保っておらず、細部において検証されない。もちろん、この姿勢もまた理論に属している。信仰は実践的であり、それは端的に信じさせるだけである。しかし、それは実践的であるので、同時に、にもかかわらず、信じていないかのようにすることもできる。箴言にすると、善の対立物が克服されはするが、にもかかわらず、そこにあるかのように行動することは確かである。あるいは、実際にそこにないので、攻撃するのにより勇気がいる。こうした箴言は首尾一貫していないことは確かである。というのも、どちらの側面も、まじめに受け取るなら、どちらの側面にとっても致命的だからである。この内的な食い違いは宗教の全領域に浸透している。再び、性的情熱によって例証してみよう。ある男が恋人を信じ、この信念なしには生きていけず、それを当然なことだと考え、絶え間なく彼女を見守っていた。あるいは、彼は彼女を信じておらず、あるいは自分自身さえ信じておらず、彼は繰り返し告白されることを欲し、それを聞こうとするかもしれない。同じような自己欺瞞は宗教的儀式でも演じられる。

 

 この批評は、当然、無限に渡る細部にまで追いかけられるが、主要な原理を確立するだけで十分である。宗教的意識は還元されない対立物の統一として感じられる。それらを首尾一貫的なものとして結びつけることや、他方において、それらを変容させることは宗教には不可能である。それゆえ、理論においては自己矛盾が、感情においては揺らぎがその本質から離れることはない。その教義は一方的な間違いか、意味のない妥協に終わるしかない。その実践においてさえも、二つの差し迫った危険がつきまとっており、明瞭な視野がなければ、対立する深淵のあいだで均衡を保つことはできない。宗教は意図的に、世界や自己の不調和に位置している。前者の場合、完璧と平和は差し置き、同時に、にもかかわらず、個人的な意志と善との相違を忘れる。他方において、その相違を強調すると、道徳性は中断に脅かされることになる。しかしまた、不調和から離れ、宗教が調和に固定しようとすると、再び被害を被る傾向にある。というのも、すべてがそれ自体において、そして世界において善であるなら、道徳であることは終り、それゆえ非宗教的になる。有限な対象へ専念してさえ、道徳的法を超えることはあり得、宗教が間違った非道徳な倒錯に誘いこむことは真実である。あらゆる現実がある意味において善であるなら、あらゆる行動は完全に関係がなくなってしまうからである。神的ではあるが空虚な世界のなかで安閑と生を夢み、たまたま起きた欲望によって行動を強いられるようなら、あらゆる実践はいかに腐敗したものであろうと、敬虔さは中味の無い精神によって空虚なものとなろう。そして、怪物的な道徳的偽善を生みだすという悲惨なことを繰り返すことになる。しかし我々は宗教的意識の病理学に入りこむ必要はない。どれほど僅かであれ、宗教的生を踏み越えたことがあるものであれば、反乱の瞬間をもったに違いない。かくも多くの犯罪が明らかになり、それらの内的汚染の親が善ということもありうることを疑わざるを得ないはずである。

 

 しかし、既に見たように、宗教が必然的なものなら、そうした疑いは捨て去られるかもしれない。最終的に、全体として宗教が善よりも害であるかもしれないという探求がなんの意味ももたないかもしれない。私の反論は、道徳性と同様に、宗教は究極的ではないことを指摘することにある。それは単なるあらわれであり、それゆえ、不整合である。あらゆる側面において、その限界を超えがちである。宗教が両極端のあいだで均衡をとるなら、どちらの側でも均衡を崩し、非宗教的になる。道徳的義務に宗教における道徳以上のものがあるなら、きっと宗教的義務はいまだ道徳的となろう。しかし、そのそれぞれは善の異なった段階の様態であり表現である。既に発見したように、善は絶対の自己矛盾のあるあらわれである。



 別の観点から同じ不整合を取りだしてみるのも助けとなろう。宗教は自然に人間と神との関係を含んでいる。そして宗教は常に(十分既に見たように)自己矛盾である。それには常に二つの項が含まれており、有限なものと独立したものである。他方において、両方とその関係が全体の形容となっていないなら、宗教は無意味である。この食い違いを解決するには、相関的な見地を完全に超えることになろう。この一般的な結論は宗教の領域においても検証される。

 

 人間は一方において有限な主体であり、神に対しているが、「関係のなかに立って」もいる。他方において、神を離れては人間は単なる抽象物である。宗教はこの真理を目にし、人間が善であり恩寵を通じてのみ実在であることを肯定するが、自律しようとすると、怒りによってそれを滅ぼす。彼は単に「関係のなかにある」のではなく、対立物によっても内的に動き、この内的働きなしには自身を維持することができない。神は有限な対象であり、人間の上に、離れてあり、その意志や知性に対して、あらゆる関係から独立しているなにかである。それゆえ、考え感じる存在としての神は、個人的な人格をもっている。しかし、自らを性質づけるようないかなる関係からも離れている神は、不整合な空虚である。他者との関係によって性質づけられたら、有限物に転じてしまう。それゆえ、神は再び、外的関係から超越している。彼は意志し自らを知るが、人間との結合において自身の実在と自己意識を見いだす。それゆえ、宗教は分けることのできない要素が、それぞれ別のところにあらわれる過程である。多様な段階と形式にあるこの人間と神との結合で、意志と知識はあまねく行き渡る。それは相対立する項に別れ、相関的な関係になる。しかし、それは同時に暫定的に別れ、それぞれの項に他の内的な存在を肯定し、感じることになる。宗教は実践的な動揺からなっており、理論的な妥協によってのみ表現する。神は人間の感情において愛し、享受しているという言明は、神が存在しないところでも愛は存在でき、双方の支柱を束ねようとするが、当惑に揺れ動く。罪は怒りに満ちた支配者に対する敵意の反乱である。全関係は罪人の心のなかで自らを感じ憎まなければならないが、支配者もまた争いあう感情によって切り裂かれ、混乱する。しかし、罪は神の自己意識において必然的な要素であるということは――しかしながら、その要素は生れてはすぐに吸収され、そのものとして自由になることは決してない――それはノンセンスかあるいは冒瀆になる。宗教は感じたことを存分に言明することを好む、それがよくないという反対陳述にはそれを修正する。そして、犬が二人の主人のどちらに従うか迷うように、両説のあいだを行ったり来たりする。我々の注意を引く食い違いは、宇宙にある神の位置から来ている。宗教において、神は常に自身を超えようとすると言える。必然的に絶対にまで行きつこうとし、宗教は神ではない。他方において、神は「人格」であるかどうかはともかく、有限な存在で人間の対象である。他方において、宗教的意識によって探求される成就はそれらの項の完璧な統一である。そうであれば、最終的に神の外部に出るものはない。しかし、神を絶え間ない動揺、その過程の変化する運動ととることは問題にならない。既に示したように、他方において、不調和な要求を調和させることは有限の性格を変えることになる。統合は関係の完全な抑圧を意味する。しかし、この抑圧によって宗教と善は消え去ってしまう。もし絶対と神を同一視するなら、それは宗教の神ではない。またそれらを分離するなら、神は全体に置ける有限な要素である。宗教の努力はそれに終りを告げ、この関係を断つことにある――にもかかわらず、この関係は本質的に仮定されている。それゆえ、絶対にまで届かない神は休まることがなく、この目標に達するためには道に迷い、宗教と身をともにする。これが宗教的意識の問題にあらわれる難点である。神は宗教において自身を意識しなければならないが、そうした自己意識はもっとも不完全なものである。(1)神と人間の外的関係が完全に融合すると、主体と対象の分離はそれとともに消え去ってしまう。さらにもし、自己がその本質において還元しあわない二つの項の関係を有しているなら、自己の統一はどこにあるだろうか。端的に、実現された善の最高度の表現である神は、常にその原理に固有の矛盾を見いだすことができる。観念と表現とが同時に分解することは、善に本質的ではあるが、実在には否定される。実在の内部を動く過程は実在そのものではない。神は完全なものとなるまでは神ではなく、完全なものとなった神は宗教の神ではない。神は一つの側面に過ぎず、それは絶対のあらわれを意味せざるを得ない。

 

 

*1

 

*1:

(1)人間―神の自己意識という二つの両極端は、調和した結合にいたることはできない。次のような表現と比較すると興味深い

 

「私は眼であり

宇宙が保ち、自ら神であることを知っている」

また、

「彼らは病を見いだし、私は放って置かれる

彼らが飛ぶとき、私は翼である。

ブラフマンが歌うとき、私は讃歌である。」

また、

"Die Sehnsucht du, und was sie stillt,"

加えて、

Ne suis-je pas un faux accord

Dans la divine symphonie,

Grace a la vorace Ironie

Qui me secoue et qui me mord?

 

Elle est dans ma voix, la ciarde!

C'est tout mon sang, ce poison noir!

Je suis le sinistre miroir

Ou la megere se regarde!

 

Je suis la plaie et le couteau!

Je suis le soufflet et la joue!

Je suis les membres et la roue

Et la victime et le bourreau!