ケネス・バーク『宗教の修辞学』 19
VIII.思春期のよこしまさ
『神学大全』の問答形式で、この章はなぜアウグスティヌスが、仲間と一緒に梨をとりそれを豚に投げつけた思春期の悪ふざけをかくも強調するのだろうかを問う。その行為は彼の宗教的動機の完全なパロディー(「よこしまな模倣」)として分析される。思春期の悪ふざけの仲間は教会の兄弟たちのゆがんだ姿である。犯罪の無償の性質。アンドレ・ジイドの作品との比較で得られる洞察。次に、この巻が詳細に分析され、罪についての我々の見解の基本となるものが十分な形で示される。最期に、方向は逆だが、「泥棒」として、「主のいます日」を引用するつながりが確認される。
アウグスティヌス『告白』第二巻に物語られた梨の盗みについて。(トマス・アクイナス『神学大全』の問答の形式で扱われる。)
問題:梨を盗むことは重要だったか。
反論1.梨を盗むことは重要ではない。それは子どものいたずらで、淡い後悔ぐらいがちょうどいい。いずれにしろ梨は食べるに適したものではなかったので、盗むことによって誰に害が及んだ証拠もない。そんなだめな梨は豚に投げるくらいしかないもので、そうでなければ腐らせるだけだったろう。
反論2.梨を盗むことは重要ではあり得なかった。アウグスティヌスの偉大な雄弁と明晰さをもってしても、彼自身なぜそれが重要だったのは示すことにまったく成功していない。
反論3.梨を盗むことは、ほんのちょっとした微罪が、鋭い悔恨のもととなって大きな改心を引きだしうるという意味においてのみ、重要である。
これに対して、アウグスティヌスは盗みについてこう言っている。「あなたのプライドは高い地位を模倣し、あなただけで神へと、あらゆるものを超えたものになるのです。」(Nam et superbia celsitudinem imitator ,cum tu sis unus super omnia dues excelsus.)
私がこれに答える:聖アウグスティヌスは司教に何らかの誓いをする際にも非常にそのシンボリズムについて鋭い感受性をもっており、この行為(梨を盗むこと)が表面的なことよりも深いなにかをあらわしているのではないかと感じることができた。
これは彼にとってアダムの最初の罪に匹敵するものだった。しかしながら、罪は単に時間的な意味において最初のものなのではなく、最も重要で代表的なものであるという意味で、最も重要で代表的な題目と考えられるという意味で最初にくるものだった。
それが彼の最も重要な罪だというのは、実質的にそれが彼の宗教的動機を完全にねじ曲げるものであり、あるいはその完全なパロディとなっているからである。
パロディだというのは、第一に、それは「自由」な、あるいは「無償の」犯罪だった(gratuitum facinus)。つまり、その行為は単に功利的に利益を得ることではなく、犯罪にそれ自体の目的のために献身している。これは単に世俗的な利益を得ようとするのではなく、神の愛によってそれらを大きく超えでたものによって動機づけられる行為の完璧なパロディとなろう。
第二に、梨を盗むことには、行為が同じような精神構造をもった仲間たちconsortumpeccantiumに承認される喜びがあった(それによってこの行為は共謀となった)。これは教会の兄弟愛の完全なパロディとなろう。
第三に、「欲望」の広い範囲を認め、第一の罪はあからさまに性的なものではなく、不服従(あるいは「誇り」)の行為一般だと気づいてはいたが、聖アウグスティヌスは『告白』の至る所で、自分の見解によれば、性的な強い欲望が強調されるわけを示そうと骨折っている。(1)「禁じられた果実」が同様の両義的な意味をもっている限り、これらの「最初の」あるいは「最も重要な」逸脱にも暗黙のうちに性的動機が含まれているだろう。しかしながら、単に比喩形象として考えられた行為が性的動機の暗示が含まれている限り、若い泥棒たちは何らかのコミュニケーションの紐帯によって結びついていた男の集団であるので、そうした邪悪な兄弟間の性的なものへの翻訳は、ナルシシスティックで同性愛的なものを強調するだろう————こう考えたとき、愛は三位一体の男性人格に広がる情愛深い相互関係の完全なパロディとなろう。
同様に、この罪の完全な不毛さ、実際的な目的がなにもなくそれ自体のために行なわれたことは(あるいは文法的な再帰のように、行為者に跳ね返ってくる行為として「再帰的な」といえるかもしれない)、修道生活一般の完全なパロディーであろう。
つまり、この出来事は、エリオットの『聖堂の殺人』で、四人目の誘惑者が聖人自身の言葉で聖人を誘惑する場面と幾分か類似している。
反論1への回答。梨を盗むことは二つの意味で考えるべきである。それ自体で考えるなら、単なる子どものいたずらである。しかし、それをまったく超えるような象徴的な状況を示しており、それはある意味でアダムによる元々の象徴的逸脱緒同じくらい憎むべきものであり、その象徴的な本性を無視するなら、どちらも些細なことなのである(本性としてはよい物でも非倫理的な目的のために使用できるのと同じように、道徳的に毒をもつ木など存在はしない)。
反論2への回答。哲学者(『ニコマコス倫理学』III,i)は、人間が行為の状況において無知である可能性が六つあると言っている。彼は自分が誰であるか、なにをしているのか、何あるいは誰に働きかけているのか、何とともに行為しているのか、なんの目的でどんな方法で行為しているのか無知であり得る。かくして、行為者が通常誰よりも自分の行為について知っているにしても、新たな光がそれが実行された遙かあとになってあてられることもある。最近死んだ小説家アンドレ・ジイドによる無償の犯罪の心理学においてそうした光があてられており、深く良心的な「不道徳主義」の学徒で、多くの無償の行為、物質的利益を得るためではなくそれ自体のため、芸術への愛好によって為される動機のない犯罪をつくりだした。(こうした関心がサルトルのようなフランスの実存主義者、ドストエフスキーのような原実存主義者にも見られる。)
ジイドはそうした動機づけの同性愛的側面を強調している。サルトルとドストエフスキー(もう一人の原実存主義者であるニーチェも)は(超人、あるいは自殺崇拝のように)人間が実際上神と等しくなる道筋を示した(自分の運命を完全に宰領するものとして)。こうした独立と特に性的類同物となるのは、人が自らに回帰的に行為を行なう場合は、この巻のアウグスティヌスがよこしまな誇りと述べたようなナルシシスティックな傾向となろう。
反論3への回答。梨の盗みはアウグスティヌスの場合には微罪とはなり得なかった。結果的にこの罪に大きな意味を認めるであろうことをあらかじめ定められていたのだとしたら、彼が後に認めることになるこの出来事の重要性を若者ながらうすうすわかっていたことによって、彼が選ばれたことが示されている。この罪は、後にもつ重要性を予示することにおいて、奇妙な重要性をもっていたに違いない。アウグスティヌスの予定説をアリストテレスのエンテレキーのライプニッツ流変奏と結びつけることもできよう。アウグスティヌスによる動機のもっとも簡潔な定式化は”Amavi perire”(私は滅びたい。I loved to perish.)で、偶然英語の翻訳でもしゃれがわかるようになっている(我々が”perish”のなかに”pear”を、perireのなかにpirumを聞き取ればであるが)。
第二巻で関連のある細部を見ておこう。
彼は神から「顔を背けた」(aversus)。(i)彼の喜びは「愛し愛されること」(amare et amari)のみにあった。(ii)神は「慈悲深く怒って」(misericorditer saeviens)いた。(iii)iiiにおいて、十六歳のとき、よこしまさの主題が、純粋に体格の見地からの性的発達と関連づけて導入される。彼の欲望の茨(vepres libidinum)は彼の頭より高く育っていた。同じ章で、よこしまな意志と卑しい性向(「目に見えないワイン」の影響を受けたかのような)を同一視するとき、彼は「好奇心」に不信を抱くに至ったのと同じ考え方を示している。つまり、神の創造物にあまりに固執することは、創造主たる神の考えを無視する罪に陥る(これと対照的な一節は、神が既に住まう寺院としての母の胸、というものである)。この類比のなかで、彼は「無恥の念が少なかったことを恥じて」いた。彼はそれをする喜びのためではなく、賞賛のために違反に喜びを感じた。罪を犯さなかったときの犯したと言い、無実であるがゆえにより卑しくならぬよう、貞節であるがゆえにより堕落してみられぬよう嘘をついた。
彼はバビロンの街路で汚物(caeno)のなかを転げ回っていたときの仲間について語っている。(1)
空腹や貧しさのためではなく、不正義を好み、悪を欲することから彼は盗みを働いた。(iv)彼は自分がとったものをほしかったわけではなく、盗みや罪そのものを欲していた(ipso furto et peccato)。梨の木は好ましく思うような香りも姿もしていない果実(pomis)でたわわになっていた。彼らは食べるためではなく、豚に投げつけるために盗んだ(proicienda porcis)。行為は不正であれば(quo non liceret)より楽しかった。
彼が捜していたのは「無償の悪」(gratis malus)のみであった。我々はここで「恩寵」のパロディにも見まがう異文を手にしていることに注意しよう。彼の悪の原因とは悪そのもでしかない(malitiae meae causa nulla esset nisi militia)。彼は破滅を愛していた(amavi perire)。彼は自分の過ちを愛していた(amavi defectum meum————ここで使われている名詞は、気づかれるように、「食」をあらわす語でもある)。彼は誤った方向(deficiebam)にあるなにかではなく、誤りそのものを愛した。恥のなかで彼は恥そのものだけしか求めなかった。第五章で、彼は犯罪を犯す理由を広範囲にわたって調べている。名誉、権力、物品、特権、優位、復讐等々によって人は犯罪に誘われる。その意味するところは、梨を盗むという自分の違反は、実際的あるいは功利的な動機づけをされていないということである。それゆえ、それは究極的なよこしまさである。こうした無動機の行為は神的なよこしまさともなり得るであろう、というのも、アウグスティヌスによれば、世界を創造する神の行為にもなんの動機も認められないからである。何らかの動機づけをすることは神の全能を制限することになろう。
第六章には、二重の動揺がある。この章は、動揺のなか「私の惨めさのなかで、私があなたのうちに愛したもの・・・!」という一節で始まっている。しかし、その後即座に、この動揺は、今度はそれを矯正するかのような別の動揺によって修正され、次の言葉で我々は彼は神に告白しているのではなく、自分の罪に呼びかけていることを理解することになる。「ああわが盗み、ああ夜中のわが罪よ」(o furtum meum, o facinus illud meum nocturnum)。ここで再び、ある意味、caenumとcaelumに似た、慎ましい従順さとしての「模倣」とパロディとしての「模倣」の相違に似た転換がある。続く三行で、対象は再び神となっている。しかし、梨に対する彼の「政策」は、梨が美しいものと述べられることでいささか変更されている。(彼は神の創造物としての梨の本性を強調しているが、以前は、その劣った性質にもかかわらず盗んだと語っており、創造者との関わりよりも梨「それ自体」を論じていた。この弁証法は彼を異なった見地へと導く。)さらに、こうした訴えかけを強調し、彼は自分の企図を再確認する一方法としてこの強調を使用し、梨のためではなく、盗むことができるから(tantum ut furarer)、罪を満足させるだけのために盗むという結論に赴く。そして彼は以前のパターンを再確立し、もしなにか食べるとき、その味をよくするのは犯罪だけだということになる(condimentum ibi facinus erat)。
次に続くのが彼の弁証法をもっとも直接的な形で再び宣言する感動的な一節で、我々が野望のうちに、悪徳のうちに得ようとするあらゆる目的はただ神への探求を通じてのみ達せられるべきだと主張される。(ここで、「好奇心」は、神の包括性に正しい意味をおいていない知識の探求である限り、いつものように悪し様に言われている。)そして、彼の定式は完成に達する。「魂の密通ではなかろうか」(ita fornicator anima)、神から顔を背け(cum avertitur abs te)、神の外側を探るのは(quaerit extra te)、清らかさ、純粋さは神のもとに帰ることによってのみ取り戻される。(1)神から離れ、神の上に立とうとするなら(adversum te)、あらゆるものは神を歪曲して模倣している(perverse te imitantur)————我々が提示した等式、「よこしまさ」は「パロディ」に等しい、のもっとも明瞭な証拠である。数行進み、彼は自分の罪において主を「よこしまに模倣して」(perverse imitates)しまったと繰り返す。こうした模倣は、「全能の方とのはかない類似を頼り」*3
第七章で、彼は付随的に恩寵の理論を導入している。神の恩寵は彼の罪を氷のように溶かした、と彼は言っている。そして、彼がしていないどんな悪で、それがどれほど広大な範囲にわたろうが、彼がそれを犯罪そのもののために愛している(gratuitum facinu amavi)限り、それらは神の恩寵に帰する。次に彼は、自分の意志(mea sponte)でした悪と神の導き(te duce)の結果したのではない悪はどちらも許されていると「告白する」。確かにこの展開は注目する価値がある。自分の「よこしまさ」についての濃密な考察のただなかで、結果的に彼は読者に(神への「告白」を経由して)、自分に対する非難は「免除された」(dimissa)と伝えているのではないだろうか。
ここに暗黙のうちに含まれている理論とはおそらくこうである。もし人間が、神が最初に人間の方を向いてくれるまで、あるいは向いてくれなければ、神の方に向けないのであれば、人間が神の方を向いているのであれば神は人間の方を向いてくれているに違いない。神が回心を与えてくれ、それによってアウグスティヌスに可能になった回心は、恩寵と慈愛に満ちた無償の行為であり、アウグスティヌスの思春期の泥棒も、さしたる動機もなく、そうした無償性をよこしまに模倣したものだった。ペラギウス派との論争に関わることになったのは、人が自分の力だけで有徳になり得るという考えを彼が断固として拒否したことから来ている。というのは人には、自分の方を向いたものの(conversis ad te)罪を許してくれる神の慈悲が必要だからである。そして、アウグスティヌスは、突然、彼をあざ笑う(derideat)かのようなもう一つの可能な寛大さに思い当たる。彼より病んでいない者は、同じ医者からより多くの助けを得るのではなかろうか(ab eo medico)。
第七章で、彼はより単純な形でこの定式に立ち戻る。盗みだということだけのために(inillo furto, in quo ipsum furtum amavi)愛した盗み、それが無であるにもかかわらず彼はそれを愛した。このとき彼は、共謀という要素を付け加えることで動機づけの部分を変更している。彼はそれを一人ではしなかったろう————共犯者、罪人の一団consortium peccantiumのなかにいたからそのような行動をしたのだ。第九章では、彼は嘲笑という主題を提示しており、この笑いは人が無恥でないことを恥じるとき(pudet non esse impudentem)、彼とその共謀者が何をしているのか知らない者たちを欺くことを考えた笑いである。そして、この章の最期で、彼は神のなかでの休息(quies)と彼が死の領域(region egestatis)へと入った思春期のよこしまさの時期とを較べている。
かくして、それ自体のために求められる悪、神へ言及することなしに求められた悪、悪い仲間への訴えかけにある悪というテーマはすべて「パロディー」という意味における「模倣」にまとめられる。
また、仮説ではあるが、アウグスティヌスのグロテスクなまでの「神のごとき」盗みについて考えるとき、異教に敵対する構想を練る初期キリスト教信者を、新たな秩序の一般に認知された権威者へと変容させるようなひそやかな恵み深い共謀について述べた聖書への言及が少なくとも付随的には考えられる。(「ペトロの手紙二 3:10」「主の日は盗人のようにやって来ます。」(adveniet autem dies Domini ut fur)
*1:(1)『神の国』(XIV,xvi)でアウグスティヌスは、欲望が多くの対象をもち得、なんの対象とも言及されないとき、我々は通常その欲望を性的なものと想定している。
*2:(1)息子との対話である「教師について」で、アデオダトゥスは、一文字変えるだけで「汚物」caenumは「天国」caelumに変わると伝えられている。(またaeという二文字はときにoeに変わることにも留意しよう。)パロディや馬鹿馬鹿しさに転化するという意味での「模倣」は、僅かの相違でまったく違うものになるものについてのアデオダトゥスの関心の「主要な」対応部として扱えるだろう。
*3:tenebrosa omnipotentiae similitudine)にした許すことのできない行為であった。
(((1)「密通」とは、すべての動機を覆う神によって直接的に動機づけられていないような関心を指す彼の言葉である。かくして、続くエッセイの図式においては、この響きのある「特殊な」言葉は、そうした手に負えない傾向を「根絶する」「苦行」と対照的なものとなろう。