ブラッドリー『仮象と実在』 210

[しかし、それは幻影ではない。]

 

 この章の残りで、いくつかの誤解を取り除こうとしよう。最初に私が気がつかずにおれぬのは、古くからある事実の混同である。そこで以前には差し控えていた結論を部分的に繰り返すことになるだろう。もし宗教があらわれなら、自己と神も事実ではなく幻影だといわれるかもしれない。これはどこにでも見られる常識が哲学に対立するときの偏見である。常識は最初から荒っぽい道をたどり、現象を解釈し、それを究極的な真理だとする。推論も日常的な経験における絶え間のない抗議もその主張を揺り動かすことはない。しかし我々はこの説得は野蛮な間違いに基づいていることを見てきた。確かに人間は究極的な実在を到るところで知り、経験し、実際、それ以外のものを知ることも経験することもできない。しかしそれを十全に知り、経験することはまったく不可能なことである。というのも、有限な存在と知識の全体は、あらわれにとって、存在と内容という二つの側面の疎外にとって欠かせないものだからである。もし事実が究極的な実在や事実であったとしても、どこにもそうした事実はまったくない。ただひとつの事実があるとすれば、それは絶対である。他方において、もし事実が実際の有限な出来事を意味し、その事物の本質がここやいまに限定されているなら――それらの事実は最低限のものであり、もっとも不確かなあらわれである。我々の生における共通の仕事はこの低次元から抜け出ることにある。それゆえ、この意味において、事実そのものが幻影と呼ぶことができる。

 

 宗教的な意識では、特に、我々はそうした事実とは関わらない。その事実は、内的な経験であっても、明らかに内容的に不測で、ここやいまといった制限を受けることはできない。地獄や天国を垣間見せられたとしても、我々の「事実」とその存在の両立不可能性は我々の観点を強いることになる。同じ真理は外的な宗教的出来事すべてに当てはまる。それは感覚的な限定を超えた意味がない限り宗教ではない。一般的な問題は、神と人間との関係があらわれなのかどうかではなく、というのもそこに関係はなく、それを可能にするような事実もないからである。問題は現象の世界のなかで、そうした事実はどこに位置づけられるかである。別の言葉で言えば、どの程度実在であり真理であるのか。

 

 こうした探求に十分に足を踏み込むのはここでは不可能である。以前の章で手に入れた基準を適用するなら、宗教以上に実在的なものはないことがわかる。宗教的事実と外的な存在で与えられた事実を比較すれば、問題は些細なものとなろう。宗教的意識よりも確固たる実在を要求するものは、自分でも知らないものを探し求めることになろう。経験に見いだされる人間と神との実在に不満なものも、知的には最終的に満足のいくことを見いだすよう招かれるかもしれない。というのも、二つの感覚される存在としての神と人間は、過去の再認に降格されるだろうからである。存在することのできる神はきっと神ではないとさえ言えるかもしれない。そして、人間と神は二つの実在、個的なものと究極的なもので、その「立ち位置」はどこにあるのか、それらの「あいだの」関係はいかなるものなのか――すでに見たように、そのつながりは自己矛盾であり、それゆえあらわれである。宗教において絶対を捕まえ、捉えようとすることは、実際に達成されたとしても宗教を破壊する。(1)不整合なその試み、その失敗、不満などから宗教は最終的なものでもなく、究極的でもない。

 

      

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*1:

  (1)それはもし神が存在するなら私はなく、私があるなら神は存在しないというジレンマに導かれる。この反対が自明にのことになるまで我々は真の観点に達することはない。そのとき、ためらいなく私が存在しないなら神は神でなく、神が存在しないなら、私は何ものでもないと答えることになろう。