ブラッドリー『仮象と実在』 211

[宗教的真理に関する実際的な問題。]

 

 しかし、もしそうなら、実践の結果はどうなるだろうか。それに答えるのは私の仕事ではない。そうした疑問に固執することは有害な偏見にとどまることになろう。形而上学者の仕事は究極的な真理を探究することであり、どれほど重要だろうとも、それ以外のことに関わることはできない。我々は芸術や科学における英国の自由に関心を持っている。実際的な結果についての関係のない主張にも耳を貸すことがある。芸術や科学の領域では、その罪は罰をもたらすだろう。そこに臆病さを認め、特異性や真正さを見いださないだろう。他の考えや誘導から離れて神と宗教とを理解しようとするものは、理解できないものもあるだろうし、衝撃を受けるものもあるだろう。この問題に対する英国の考えは、外国の学派を研究していないので、理論的に価値がない。私自身にはこの偏見の結果は個人的に障害になる。道徳性や宗教への関心が、教師や宣教師のものとされるなら、私はこの問題を彼らに任せておきたいと感じている。私がその問題に触れたのは、そうせざるを得なかったからである。

 

 これだけのことをいえば、それ以上のことは必要ないだろう。しかし、実践に関することでいえば、すべてを答えないで済ますわけにも行かない。その問題を安全に指摘してみよう。宗教がどれほどわずかであろうとなんらかの教義は俟っているはずで、そうした教義が究極的な真理ではないことは明らかである。多くのものにとって、より少ないものが否定される。科学のことを考えてみれば、似たような立場が見いだされる。すでに見たように、その第一原理は最終的には自己矛盾だった。それらの原則は部分的には正しく、厳正でありうまく働くだろう。それではなぜ宗教においてもそうした働いている観念では十分ではないのだろうか。そこにはいくつかの重大な難点があり、主要な難点は次のようなものである。科学においては多くの場合、我々が目指す目標がある。この目的をするために、我々は手段を検証し測定する。しかし、宗教では、我々の主要な目的が明らかではない。そのような混乱した不一致をもとにしては、合理的な議論は不可能である。我々は宗教に必須の教義となる観念を得たい。そして我々は、教義が必要とする目的を検証することなくはじめ、それによって明らかにに判断を下さねばならない。ある人間がある種の信念や一揃いの信念を心に抱いているようなときがある.そして、それらの特殊な教義が真でないなら、あらゆる宗教は終わりを迎えるとさ叫ぶ。それが民衆の讃仰するものであり、宗教の擁護といわれるものである。

 

 しかし問題がそうしたものなら、私には解決できないし、合理的に議論もできなので、宗教の本質と目的について探求は始めねばならなかった。その探求において、二つのことが欠けてはならないと思えた。実在、善、真理についての一般的な性質に関する整合性のある見方と、宗教の歴史的事実に目を閉じてはいけないいうことである。最初に、我々は宗教的真理の目的についてなんらかの結論を得なければならない。それは理解のために存在しているのか、他の対象に従い従属しているのか。そして、後者が真なら、その目的と対象はまさしくなんであり、その基準をどう使わなければならないだろうか?もしこの点を押さえても、目的を超え、それに不足する宗教的真理は存在する資格を持っていないことになる。第二に、我々は科学的真理の性質を明確にはしらないが、ほぼ確実な宗教と価格との衝突を合理的に扱うことになる。事実、我々は何らかの衝突があるかないか言えない。あるいはまた、衝突があったと仮定して、いかにその重要性を評価するのは損失となる。そこで我々の結論はこうなる。もし英国の神学者形而上学を真面目に受け取らず、明らかに何らの論点を取り上げて論じるなら、無視はしないまでも、少なくとも真剣にその知識を得ようとはしないだろう。しかし、形而上学は一年や二年でなるものではなく、そうした主題は身を捨てて関わるしかない。最後に、歴史に目を向けることの意味を説明しておこう。宗教が実践的問題なら、持続的な収容と保有の力を無視するわけでにはいかない。しかし、、他方において、歴史は異なった秩序で教育をする。もし過去と現在において、ある特殊な教義の不在において宗教が繁栄したとしても、それらの教義が宗教に本質的なものだと主張する一歩は軽いものではなくなる。議論も教義もなしにそれをすることは、味家のない過程から、おそらくは「人格的な」神から始めることで、より敬意を払うべき主題をつまらない適当なものとして扱うことになる。

 

 必要なのは、端的に言って、問題を偏見なしに見ることであり、あらゆる方向から見てみることである、このようにして、我々は合理的な議論を期待できるが、それに到達すると仮定されるいかなる正当性も感じない。おそらく、宗教における偶然的なものと本質的なものとの区別は、より長く未舗装の過程をたどることが必要である。おそらく敵対的な間違いの盲目駅な競合や、敵意のある宗派には存在のための厳しい争いがあるに違いない。しかしまた、こうした結論は本気の試行錯誤なしには受けいれるべきではない。これが宗教の実践的な問題について私が言おうとすることのすべてである。