ブラッドリー『仮象と実在』 213

 第二十六章 絶対とそのあらわれ

 

[この章の対象」

 

 我々は善が、真理と同じように、一面的なあらわれであることを見てきた。それぞれの側面は、自らを超越すると主張された。その運動によってそれぞれは限界を超えて発達し、より高次のすべてを抱握する実在に融合する。我々より十分にこの実在の統一の性格を説明する仕事に取りかかる時期にきた。我々は多様な現象の領域に正当性をもとうとしないことは確かである。真理と善は無益なことに終わり、問題は物理的自然や魂の問題についても同様だった。しかし、そうした欠陥に我々は甘んじて従わねばならない。というのはこの本の対象は実在に関して一般的な観点を述べることにあり、この見解をより明らかで目立った反対から擁護することにあるからである。十全で正確な擁護はあらわれのすべての領域を体系的に考慮することにあるが、それには形而上学が原理の真の証明となるような完璧な体系が必要となる。しかし、そのような企てに加わることはできないとしても、絶対に関する我々の結論は正当化しようとする必要がある。

 

 ただひとつの実在しかなく、その存在は経験にある。この全体にあらゆるあらわれは出現し、多様な程度において、その個別的な特徴を失ってあらわれる。実在の本質は統一と存在と内容との一致であり、他方において、あらわれはそれら二つの側面の食い違いにある。最終的に、実在は単一の実在物以外には属さない。なんであろうと、それが絶対以下であり、一度その内的矛盾が主張されると、それはあらわれである。疑わしい実在は分割され、二つの不調和な要素に分解する。「なんであるか」と「これ」とは明らかに二つの側面であり、同一でないことがわかり、この相違はあらゆる有限な事実に内在するもので必然的に分裂を招く。内容がその意図や意味をは異なるものである限り、存在が多かれ少なかれ本質的に含んでいるはずのものとは異なるとき、我々が単なるあらわれと関係していて、真の実在と関係していないときにそうなる。我々はあらゆる領域にこうした矛盾が行き渡っているのを見いだす。有限なあらゆるものの内的存在はそれを超えたものに依存している。いわゆる事実が主張されているところはどこでも、内的性格が外側にはみ出ているのを見いだす。この自己矛盾、あらゆる存在する事物の不安定と観念性は、そうした事物があらわれであることの明らかな証拠である。