ケネス・バーク『宗教の修辞学』 23

XII.しがみつくこと(Inhaerere)

 

ジョン・ボウルビーの幼児における「五つの本能的反応」。アウグスティヌスはその三つ、泣き叫ぶこと、笑うこと、吸うことに言及する。しがみつくこと、ついていくことには言及していない。成人してから、ついていくことは、アウグスティヌスの聖書の権威についての姿勢に含まれている。(スピノザの論理的進行。)アウグスティヌスはボウルビーが述べなかった反応を付けくわえている、休むことである。アウグスティヌスの死後の観念において、休むこととしがみつくことは互いを含みあっているように思える。関連する文脈の一覧。こうした言語行動と幼児のしがみつくという行為との関係。

 

 アウグスティヌスが母親との会話でattingereという語に与えた戦略的な役割は、この語を別の文脈に置いてみるよう我々を促すに十分である。そして、幼児心理学者ジョン・ボウルビーの示唆によって、「しがみつく」あるいは「くっつく」にあたるラテン語を考えてみよう。「子供と母親の結びつきの性質」に関する論文のなかで、ボウルビー博士は、幼児の五つの「本能的反応」を論じている。つまり、泣き叫ぶこと、笑うこと、吸うこと、しがみつくこと、ついていくこと、である。第一巻第六章で、アウグスティヌスはそのうちの三つに言及した。泣き叫ぶこと、笑うこと、吸うこと、である。幼児の「反応」としてのしがみつくことやついていくことに言い及ぶことはなかったが、成人になってからついていくという原則は、聖書への全身全霊をかけた関わりによって断固とした形で具体化されている。(1)

 

 

*1

 

 

 前の方の章で、アウグスティヌスはボウルビー博士のリストにはない幼児の「知識」について述べていた、休むことである。この付加は、神のうちに究極的な休息があるという希望が彼の非常に大きな神学的力点であるので、アウグスティヌスにとっては重要である。「しがみつくこと」にあたるラテン語があらわれる文脈を見ていると、神のうちに休むという考えは、神にしがみつくという観念と融合するように思われてくる。

 

 第七巻第十一章、アウグスティヌス詩篇73:28からこの語の「基本的な」一節を引用している。「わたしは、神にしがみつけることを幸いとし」(mihi autem inhaerere bonum est)。(別の英語訳は、もっと弱い表現で本当の意味が隠されている。「わたしは、神に近くあることを幸いとし」。)我々の注目するその他の個所は次の通りである。

 

 第四巻第四章。神が聖霊の愛によって、ひっつき合おうとする者たち(haerentes sibi)を膠のようなものでつけないなら(agglutinas)、真の友情などは存在しない、と彼は言う。

 

 第四巻第十二章。「あなたをつくったものにしがみつく(あるいは、くっつく)」(inhaerete illi,qui fecit vos)。次の文は神の傍らに立ち、神のうちに休むことが言われている。State cum eo et stabitis,requiescite in eo et quieti eritis.

 

 第五巻第四章。なにも持っていなくとも、神にしがみつくことだけがすべてである。(inhaerendo tibi)。

 

 第六巻第十五章。彼の心はいまだ彼女にしがみついているが(adhaerebat)、愛人をアフリカに送り返す。

 

 第七巻第五章。まだ学ぶことは数多くあるが、カトリックの信仰はその心に既に厳然と根づいている(stabiliter…haerebat)。

 

 第七巻第十七章。彼は自分が誰にしがみつく(cui cohaererem)べきかについて疑いはもっていないが、いまだしがみつくような種類の人間ではない(qui cohaererem)。与格のcuiと主格のquiは発音において殆ど同じで、この用法は間違いなく言葉遊びと感じられることを意図している。

 

 第七巻第十九章。キリストとロゴスとしての言葉の関係についての不完全な理解。彼は肉体がどうしてロゴスとしての言葉に結びつくのかが理解できない(haesisse carnem illam verbo you)。

 

 第八巻第一章。神の言葉は彼の胸を強く打つ(inhaeserant)。

 

 第八巻第六章。ポンティティアヌスが語る回心の物語、それはアウグスティヌスの回心のある段階に重要な影響を与える。ある友人が別の友人に信仰を宣言しようと語り、それを聞いた者は、大いなる報いと勤めを分かち合うために彼に従おう(adhaerere)と答える。

 

 第十巻第二十八章。存在のすべてをあげて神にしがみつくこと(cum inhaesero tibi ex omni me)。

 

 第十二巻第九章。神にしがみつくことで(inhaesero tibi )、時間の変転を越えて、天の天へと至る。

 

 第十二巻第十一章。神聖な神にしがみつく神聖さ(inhaerendo beatitudini tuae)。同じ章のあとで。絶え間なく変わることのないしがみつき(indesinenter et indeficienter tibi cohaerendo)。

 

 第十二巻第十五章。「純潔な愛をもって」神にしがみつくこと。(tam casto amore cohaerentem)。この言葉はこの章で更に二度繰り返され、三度目はこの一覧で引用した詩篇からの引用が再びされている。

 

 第十二巻でのこうした言及のすべては、神と彼にしがみつくことによってその永遠に参与することになる天の天との関係に関わっている。それらは「私の精神の最初の果実のありかであるもっとも愛すべき母」(第十二巻第十六章)(1)でのように、エルサレムとその平和について語られることで融合する。Sinusという語は「その胸のなかには(in cuius sinu)いかなる矛盾も存在しない」神への言及において(第二十五章)、多様な自然が形づくられる広大なる神の胸中(sinu grandi)に蔵される原書の物質への言及において(第二十八章)あらわれる。第二十七章は、創世記の言葉をあふれ出る泉に例えることから始まり、巣に戻る雛の姿で終わっている。第二十八章は例えを変え、ある者にとってはそれらの言葉は巣のようであり、ある者には飛ぶことを楽しみ(volitant laetentes)、さえずり、花を飛び渡るような茂み(frutecta)だと言っている。

 

*2

 

 第十三巻第二章では、しがみつくという観念は明らかに回心の観念と融合している。再び詩篇の一節をほのめかしながら(今回はinhaerereの代わりにadhaerereを使うのだが)、物質は神にしがみつかねばならず、神から身を背けるや(aversion)、彼に向き合っていた(conversion)ときに得ていた光を失うのである。同じ考えは第三章でも繰り返され、その言葉はcohaerendoとconversaになっている。最後の例は第十三巻第八章にあり、天国における従順な知性が神にしがみつくこと(inhaereret tibi)として記されている。そしてまさしく次の語が神の精神における休息(requiesceret in spiritu tuo)を言っている。かくして、締めくくる働きをする休息と平安の主題はあからさまには「しがみつく」という語を用いてはいないが、我々が考慮してきたこの引用の一覧によって確かなものとなるのは、「本能的反応」がいかに伝えられるかと問うのであれば、それは暗黙のうちに確立されているのである。

 

 我々はアウグスティヌスの死後の休息(そして沈黙の言葉)の観念が単に幼児の母親へのしがみつきに還元されうると示唆しているのではない。我々が言っているのは、彼の著作にあらわれている言語的行動に関する限り、しがみつくことへの言及は、その連想が彼の特殊な用語法において「永遠」が示す複雑な意味の顕著な編み目を特徴づけているということである。このことは、母と子の文脈において能弁な大人が使う「しがみつく」という言葉が、ボウルビー博士が幼児において観察したような「本能的反応」からの動機づけとはまったく異なる経路にある可能性があると考えることを可能にする。このことは心理学者が決定するのを待たねばならない。とにかく、言語的行動に関する限り、「しがみつく」という言葉を用いることは、少なくとも、幼児のしがみつくという言葉を欠いた行為と同じくある態度の表明と取るべきである。そして、この観点は、アウグスティヌスの死後における沈黙の言語活動の雄弁な記述についての言及に結びつけるべきもので、その考えは幼児の言語のない状態が、そうした言語のない状態が逆説的に大人の言語によって考えられるときにその類同物として解釈される。

 

*1:

(1)第二巻第七章で、アウグスティヌスは自分の意志(mea sponte)によってすることと、神の導き(te Duce)の結果としてしないこととを区別している。別の個所、既に引用したが(第五章、第十三章)そこではひねりを加えて、神によってアンブローズのために無意識にさせられたことと、アンブローズによって神のために意識的になされたことが書かれている。

 「導くこと」や「ついていくこと」をかぎとなる語と気づいていなかったのであるから、それらが欠けていたというつもりはない。この問題を検証するには更なる調査が必要だろう。少なくとも、アウグスティヌスの聖書の権威への姿勢を見れば、「ついていく」(それはまた導く者となるためのついていく者の資格取得も含んでいる)という観念を強く意味する多くの言葉が見いだされることは明らかである。

 ちなみに、「ついていく」という特殊な語に注目に値する戦略的役割を与えているのがスピノザで、彼は他の観念に「論理的についていく」観念を大いに強調した。非常に高度な合理的洗練のもとに「幼児期」からの動機が見いだされるというのは興味深いことだろう。また、スピノザの論理的進行の強調(それゆえ常にsequiturが繰り返されることになる)は、アウグスティヌスが聖書の権威が導きとなることを強調するのと著しい対照をなしている。

*2:(1)122ページ参照、そこには「精神の最初の果実」についてのそれ以前の言及がある。