一言一話 117

桑原武夫全集3 伝統と近代化』

 

..芭蕉について

 

...芭蕉の誠と西欧文学のサンセリテの相違

ところが綿密な研究をつづけた学者のうちにも、同じように芭蕉を西洋風の人生詩人に見たてようとする傾向がある。そして「誠をせむる」などという言葉に力点がおかれすぎた。誠はフランス語でいえばサンセリテとなろう。しかし近代文学でいうサンセリテとは、スタンダールなどの場合に最もはっきりあらわれるように、「主のたまいければ」という言葉を否定しようとする、つまり既成倫理を反発して、自己が倫理創世の主体になろうとする個体の自覚である。ところが芭蕉の誠というのは、人生的倫理的態度ではなく、恐らく表現のための誠実、あるいは表現における誠実ともいうべきものであったろう。誠をせむるというのが、既得のあらゆる「型」をつき破ることであって、芭蕉は貞門の型、談林の型をつぎつぎと破っていったというのは正しいが、しかも彼は日本中古の文学と唐宋詩文の伝統をつぐことを誇りとしたものであった。内的自己の革新をはかり、その新しい感動を吐露することによって「新しみ」を創造しようとしたのだ、とは考えられない。「昨日の我にあける人」といっても、それは自己改革などではない。俳諧が「上手になる」ための前提にすぎぬのである(小宮豊隆芭蕉の研究』)。芭蕉は一つ前の型をすてはしたが、常に大きな伝統文学の型の中で考えていた。本当の意味での型を破る誠とは、「自分はフランス語で書くが、フランス文学では書くまい」といったスタンダールの言葉に要約されるような精神であろう。

確かに芭蕉は、「自分は日本語で書くが、日本文学では書くまい」とはいわなかっただろう。