ケネス・バーク『宗教の修辞学』 24

XIII.上昇することを面倒なものとする三位一体についての考察

 

神の探求と幸福な生の探求との等値。アナロジーを用いる巧みな文体への寄り道。誰でもが幸福への探求を記憶している限り神のことを「記憶」している。「記憶」の一部としての「心」。誘惑という主題への転換。三位一体の第二格への関係と第三格への関係との心理学的な相違(知ることはより知的であり、休息はより浄化的である)。愛(あるいは一般的欲求)は聖霊ともっとも直接的に関係している。しかし、欲求が手に負えないものとなる限り、浄化的な要素が犠牲としてのキリストの観念の形を取る。二つの意味での媒介者キリスト。仲裁者としての媒介。時間と永遠の領域を橋渡しする媒介。(詩的アナロジーキーツの壺。)権威(Potestas)と関係するロゴスと精神(知恵と愛)を扱うために必要な「二重のプロット」。詩的形象への関心がいかに誘惑への関心に導かれるか。

 

 第十巻第二十章で、アウグスティヌスはロゴロジーの目的には主要な重要性をもつある等式を提示している。神の探求と幸福な生の探求を等価だとしている。Cum enim te,deum meum,quaero,vitam beatam quaero.端的に言えば、「幸福」とは「神」の経験世界での同意語であり、「幸福」はまた「祝福された」をも意味するという事実によって回心はより確かなものとなった。ちなみに、続けて彼は我々の幸福についての知識を、我々自身が雄弁ではないにしても有することのできる雄弁についての高い評価と較べている。(この一節は、巧みな文体についての考えとも一致している。)

 

 ここでのアウグスティヌスの推論はこうである。各人は何らかの形で歓び(gaudium)を求める。それゆえ、各人は幸福についての部分的な「記憶」をもっている。そして、幸福が神と等しいなら、その意味において、神は記憶のなかにある。この推論の結果として(楽しみを求めることにおいてよこしまなものでさえ神を探し求めている)、迅速な解決はvert族の言葉によって与えられる。「彼らの意志は歓びのある確かなイメージ(ab aliqua imagine gaudii)から身を背ける(non avertitur)ことはなかった。」

 

 次に(第二十三章)、幸福な生は「真理の歓び」(gaudium de veritate)に等しい。そして、アウグスティヌスが真理を見いだしたことをおぼえている限りにおいて、彼のなかに神が存在する。(神の存在を当然のこととする聖書のテキストで記憶を満ちあふれさせているとき、彼は庭園での決定的な瞬間のことを言っているのか、洗礼志願者としてそれを準備しているときのことなのかはわからない。)

 

 二十五章は、アウグスティヌスの心理学を理解しようとするとき、考慮すべきであるあるひねりが与えられている。「心」と「記憶」という言葉を使う現代の心理学は、おそらくは「記憶」を「心」の一部と扱っているだろう。しかし、アウグスティヌスの用語法では、心はそれ自体を記憶することができるので、「記憶」はより包括的な言葉である。かくして、彼は、記憶の深みに入ることで、心の中心に入るのだと言う(intravi ad ipsius animi mei sedem)。そして彼は、神は心のなかにはいないが、記憶のなかにいると結論する(第二十六章)。彼が神を「学ぶ」前であったが(neque///priusquam te discerem)、神はこの「名誉」を認めてくれた。しかし、彼は即座に付けくわえる。記憶は場所ではない(nusquam locus)。しばしばやっかいなvert族が、神を求めるここでは好意的に用いられている。真理は、多様な物事において彼の意見を求める者にいたるところで答えている。次に(第二十七章)、場所について最近得た教えで、アウグスティヌスは場所に関する幾つかの言葉を使っている。神が内部(intus)にいたとき、彼は神を外部(foris)に捜していた。触れるという観念はここで反転されている。彼が神聖なものに触れるのではなく、神聖なものが彼に触れ(tetegisti me)、彼は神の平和に向けて突き進むのである(exarsi in pacem tuam)。このことがしがみつくこと(inhaesero第二十八章)について語ることに導かれる。

 

 しかしながら、しがみつくという観念はまた、しがみついているものから引きはがされる可能性を含んでいる。そして、そうした転換から、次の「登る」ということが出てくる。彼は困窮についての恐れからくる世俗的な繁栄を求める誘惑を警告している(七行の間に五回vert語があらわれている)。

 

 この転回は様々な仕方で説明することが可能である。少なくとも、それは別の場合であったらあり得ないような形で、最後の四巻を最初の九巻と首尾一貫したものとしている。彼は誘惑を主に自分自身の経験した誘惑として扱っているので、告白から信仰告白への転換の鋭さは、告白の部分では鈍いものとなっている(1)。彼の個人的な肖像としては、ここはもっとも魅力的な箇所である。ここで我々は、アウグスティヌスが今日多くの人間が誇りにするようなことを弁解していることに皮肉な眼をもってみることもできる。(彼が「誘惑」と考えているものを、今日の人間は間違いなく「生命力」や「感受性」と考える、というのも、彼は問題の全体を禁欲の問題として、巧みに欲求や野心を押し殺すこととして扱っているからである。そしてその後悔の過程において、彼は間接的に、いかに自分がこの世界の快楽にひときわ反応するたちであったことをあかしている。このように意図的でなしに与えられた証拠は、弁解する代わりに自慢していた場合よりも、ずっと説得力がある。)

 

 

*1

 

 「上昇すること」についての中断(誘惑を論じるために立ち止まったように)もまた、うまい対照を与えるものとなっている。これなしでは、四巻全体は、個人的な問題を一般的な「誘惑」についての体系的な考察と融合した部分から彼が引きだした対位法によっても、単調さから免れないことになろう。

 

 三位一体の第二格に対する彼の関係と第三格に対する関係との心理学的相違についての我々の考えは、誘惑についての章によって行なわれる別の働きを示唆している。表面的には、最後の四章で強調されているのは知ることについてである。しかし、そこに編み込まれているのは、完全な休息という観念に焦点があうようになるある種の愛着が存在する。知ることはその二つのなかでより知的である。休息はより道徳的、あるいは浄化的である。かくして、この転換は知恵のもとに分類されうるような諸動機(「ロゴスとしての言葉」に関係している)と愛のもとに分類される諸動機(聖霊に結びつき、主として欲望のカテゴリーにある)や「意志」との相違を反映するだろう。

 

 このことは、これら四つの「司教主義的な」巻の弁証法にひそむある種の「二重のプロット」が存在することを意味することとなろう。一つの要素は本質的に知的なものであろう(それゆえ、もっとも直接的にロゴスとしての言葉に関係している)。他方は、直接的に、欲望や意志することを含んでいるがゆえに本質的に道徳的あるいは浄化的なものとなろう――そしてそうした欲望についての理想的な言葉は愛である(もっとも直接的に聖霊に関連している)。欲望が手に負えず、従って禁欲による管理が必要とされる限りにおいて、浄化的な要素が描かれることとなろう。そして、こうした禁欲の原理は、禁欲の治癒が部分的であるのに対し、絶対的な治癒である完璧な犠牲者としてのキリストの観念において完全なものとなろう。

 

 かくして、キリストは二つの意味を媒介することとなろう。意志することの観点からすると、彼は人間の罪を引き受けることで媒介するだろう。知ることの観点からすれば、彼は自然と超自然、時間と永遠の二つの領域を媒介する原理となろう。身代わりの役割は、劇的カタルシスの役割となろう。しかし、純粋に弁証法的な観点からすると、神と人間という彼の二重の本性において、キリストはそれら二つの異なった領域を一緒にし、両者の間を行きつ戻りつしながら「翻訳する」両義的な中間項となろう。彼はキーツの壺の観念が詩的に行なっているのと同じ役割を神学的に行なっているのであり、壺は感覚的形象の世界から感覚を超越した「精神的」領域に導く想像力の聖餐であり、アブラハムの胸中のように(第十二巻、第二十五巻)、なんの矛盾も含まない。自然を創造することにおいて、ロゴスとしての言葉が自然の領域と超自然の領域を区別するように、ロゴスとしての言葉は正反対の方向、それら二つの領域の媒介者を助ける働きをするものとも見られる。

 

 第一格が力と等しく(それゆえ権威とも等しい)、第二格が知恵(言葉)、第三格が愛(精神的な結合)である三位一体の神への回心に関しては、『告白』の叙述的な分配に我々が認めた二つの段階が、同様に、「叙述後」に展開される用語の循環に認められるものではなかろうか。そこにはある種の「二重のプロット」が存在し、それによって時間的遅れが許されるようなある要素が行きつ戻りつするさまを開示する必要があるのではなかろうか。実際、西洋の劇における二重プロットの原理は、最終的にはこの同一の思考パターンに関係しているのではないだろうか。

 

 いずれにしろ、記憶から誘惑への段階に関しては、思い起こすべき単純な発展が存在する。記憶の本性について考察しているとき、アウグスティヌスは過去の事物を思い起こし、過去の経験に基づいて未来の可能性を想像するどちらにも働くイメージの役割に行き当たった。次に、イメージの主題は、司教派への回心者のゆめに現れた荒々しいイメージの性質のために、誘惑の主題に移る。かくして、アウグスティヌスが「節制」の文字通りの意味を拡張する短い一節、それによってばらばらなものであった我々が集められ、一なるものに立ち戻るのだと言ったあと、彼は回心の場面では十分に伝えられていなかった自分の夢の問題に目を転じるのである。



*1:

(1)あり得べき誤解を避けるために、アウグスティヌスは、「告白すること」と「信仰告白すること」に明確な区別をつけていないことを記しておくべき打あろう。「告白」という語はあらゆる目的に用いられ、神の善を「告白する」というようにさえ使われる。