ブラッドリー『仮象と実在』 215

[喜び、感じ、理論、実践、美的姿勢はそれぞれあらわれでしかない]

 

 経験は経験であり、経験はまたひとつである。次の章で、それに疑いをもてるかどうかもう一度考えようと思うが、現在のところ、効力のある真理だと仮定しておこう。どの主要な側面のもとで経験は見いだされると尋ねよう。広範囲に語ると、一方に知覚と思考があり、他方に意志と欲望があるという二つの大きな様態がある。それから美的姿勢があり、それはどちらの項目にも入らないだろう。また、快楽と苦痛もあり、それもどちらとも異なる。さらに、我々は感覚をもつが、その項は二つの感覚で取り入れられているに違いない。最初に先行する特殊な側面に差異化されていない全体的な魂の状態がある。さらに、非差異化されない統一が内的である限り、なんらかの特殊な状態がある。心的な様態は他のなにかに分解もしないし、全体の統一はそれらの一部にはありえない。そのそれぞれは不完全で、一面的で、外部からの助けを要求する。この件については以前の議論で多くを費やしてきたが、簡単に概観し、いくつかの証拠となることをつけ加えたいと思う。主として心的側面から絶対のあらわれを扱おうと思うが、十全な心理学的議論は不可能であり、またほとんど要求されることもない。読者の観点は私のものとは異なるかもしれないが、主要な結果に影響を与える限りにおいて、こだわってもらいたいと思う。

 

 (1)最初に快楽と苦痛の側面について考えたいが、それが実在の実体や土台とはなり得ないことは明らかである。我々は他の要素を形容とも、依存しているとも観る事は出来ない。どのような方法、あるいは意味においても、それを全体のなかに分解できない。快楽と苦痛は実在のひとつでないことは明らかである。しかし、それらは実在そのもので、残りのものとは独立していないだろうか。これさえ我々は否定せざるを得ない。快楽と苦痛は対立しているものである。全体において快楽の均衡があるとき、この結果は快楽そのものなのはたしかなのだろうか。(1)しかしながら、快楽と苦痛の実在にはより深刻な反論がある。というのも、我々が快楽と苦痛を区別するのは単なる抽象によるからである。それらが状態や過程としては結びつかず、常に隣接していると仮定するのもまったくの非合理である。実際、快楽と苦痛はそれ自体として矛盾する性格として知られている。しかしもしそうなら、それらは自体においては実在であり得ず、その実在と本質は部分的にその限界を超えていくことになろう。それらは宇宙のあらわれである、一面的な形容で、全体に取り上げられ、融合されたときにのみ実在となる。

 

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 (2)感覚における単なる快楽や苦痛から我々は感じに映ることになるが、私は感じを有限な心的中心の直接的な統一の意味にとる。それは、第一に、区別や関係以前の一般的な条件が発達され、いまだ主体や対象が存在していないということを意味する。第二には、現前し単にそこにあるという限りにおいては、心的生のどの段階においても現前する。(1)その意味において、あらゆる現実的なものは、それがなんであろうと、感じられねばならない。しかし、それ以上のものになれない限りにおいて、我々はそれを感じとは呼ばない。どちらの感覚を、実在としての感じ、あるいは整合と正当の取れたものと考えられるのだろうか。我々は否定的に答えねばならない。

 

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 感じは内容を持ち、この内容はその内部において整合性がとれておらず、そうした食い違いは感じの段階を破壊し、破綻させてしまうものである。物質は端的にいうと次のようになる――有限な内容は存在の直接性とは両立しない。有限な内容は、必然的に外から限定される。その外的関係は(いかに否定的なものにとどまろうと)、その本質に入り込み、sその存在を超えたところに行く。それゆえ、感じの「なんであるか」は「これ」とは不調和であり、あらわれであり、そうしたものとしてこ実在たり得ない。この束の間で非真的な性格は、我々の強固な事実によって永続的に強いられている。内的また外的に、感じは関係意識に行くことを余儀なくされる。それはさらなる発達の土壌であり基盤であるが、それ自体から休みなく堕落していく。それゆえ、我々はどのような正確な意味においても、その産物を形容と呼ぶことはできない。というのも、生は感じの統一を分裂させることにあるが、この統一は再び取り戻されることも、絶対の好例となることもないからである。

 

 (3)次に知覚的、理論的、また他方において実践的側面に移ろう。それらは区別、第一に主語と対象の区別、を含むことによって前の二つとは異なる。(1)知覚的側面は出発点において、もちろん、特殊な存在はない。というのも、それは最初には実践的な側面と融合して与えられており、そしてゆっくりと差異化する。しかし、我々がここで関わっているのはその特殊な本性を把握しようとすることである。ひとつ、あるいはそれ以上の要素が感じの混乱した集団から分離し、明らかにそれ自体において、またそれを越えて自律する。そして、そうした対象の際だった性質は、単にそのようなものに思えるということにある。それが対峙する集団に働き、変更するように影響を与えるようなら、そしてそうした関係がその本質を性質づけるなら、その姿勢は実践的なものとなろう。しかし、知覚的関係は完全に対象の本質の外側にあるものと想定される。それは単に軽視されるか、偶然的で無関係なものとして除かれる。というのも考えられたものとしての、あるいは知覚されたものとしての実在は、それ自体単にあるものである。それは与えられ、また探り出され、発見され反省されるが、そのすべては——どれほど多くのものがそこに存在していようと——何も関係ない。というのも、対象は関係のうちにのみあることができ、断固としてどんな意味でもそれがある関係のうちにはない。

 

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 知覚や思考としての実在は致命的な不整合がある。その本質はそれが無視しようとしているある関係の性質づけに依存している。このひとつの不整合は二つの観点からすぐに明らかになる。理論的な対象が突出する感じられた背景は、その存在になんの寄与もしないと想定される。しかし、知覚や感覚の段階においてさえ、この仮定は崩れ去る。そして我々が反省的な思考に進むと、そうした立場は明確に維持され得ないこととなる。世界は、その本質が見いだす過程と分離できないように思われるとき、そして、見いだすことと見いだすものの双方が含まれなければ全世界とはならないことが確かならば、ほとんど見いだされたものとして存在し得ない。しかし、この最後の完璧さが一度達成されると、対象はもはなどんな関係をももたないでいられる。それとともに、その正確な存在は同時に完成されもすれば破壊もされる。知覚的な姿勢は完全にそれ自体をのり越えてしまう。

 

 別の側面から出発するとしても、再び同じ矛盾がもたらされるだろう。知覚される、あるいは思考される実在は存在し、それはまたそれ自体で存在する。しかし、他方において、それは明らかに他者との関係であり、区別される他者によって内的に決定される。それゆえ、その内容は存在を越え、その「なんであるか」は「ここにあるもの」を越えて拡がる。かくしてそれはもはやそのままの存在ではなく、実在があらわれるなんらかの観念的なものである。そして、このあらわれは実在と同一ではないので、それは完全に真であることはできない。それゆえ、最終的に、その内容は、間違いであることをやめるまでは矯正されるべきである。しかし、第一に、この修正は単に観念的なものである。それはまったく内容が存在と分離する過程に存している。それゆえ、もし真理が完全なものなら、それはあらわれでしかないのだから、真ではないだろう。第二に、真理があらわれにとどまっているなら、それは完全ではあり得ない。理論的対象は、あらゆる区別やあらゆる観念性が制圧されねばならない完成へと向かう。しかし、それが到達されると、理論的姿勢はそうしたものとして呑みこまれてしまう。それは一方において関係を予想し、他方において独立を主張する。こうした食い違う側面が取り除かれ、あるいは調和されると、その正確な性格は消え去ってしまう。それゆえ、知覚と思考はどちらも感じの直接性、あるいは一面的で間違ったものに立ち戻らねばならず、補足物や対応物を越えた完成を探らねばならない。

 

 (4)これによって我々は自然に事物の実際的な側面を考えるように促される。ここでも、以前のように、我々は形式とは何か異なる、中心にある感じの塊を越えた対象をもたねばならない。しかしこの場合、関係はそれ自体本質的であり、対立とも感じられる。対象の観念的な変更が示唆されるが、その示唆は感じの中心によって排除されることはない。そしてその過程は、私のなかにあり、それ自体変わるものとそれ自体対象となる観念的な性質づけによって完成される。大ざっぱに取ると、それは実際的な姿勢の主たる本質であり、その一面性と不十分さは明らかである。というのも、それは創造する力のない分裂を癒やすことに存しており、いったん癒やされてしまうと、実際的な姿勢は完全に取り除かれてしまうからである。意志は、確かに単に観念だけでなく、実際的な存在をも生みだす。しかし、それは出発点においてまた本質において観念性と単なるあらわれに依存している。永遠に有限なものであり、それゆえ不完全で不安定な調和がある。そしてもしそうでなく、観念と存在物が一つとなるなら、それらの間の関係は消え去り、そうした意志そのものが消え去らねばならない。かくして、実際的な姿勢は、その他のものと同じく、実在ではなく、あらわれである(1)。この結果とともに、我々は意志についてのある種の間違いを考慮する場を残した上で、先に進むことができる。というのも、意志は知覚と観念の区別を含み、前提とするなら、我々はそれがそれらよりもより実在をもっているかどうかほとんど尋ねる必要はない。

 

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 (5)美的な姿勢において、我々は最終的には観念と存在の対立が超越され、最後には関係的な意識を超えたものが切り抜け、越えでる。というのも、美的姿勢は感じの直接性にとどまっているように思えるからである。そしてそれはまたある性格を持った対象であり、自律しており単に観念的ではない対象である。世界この側面は、ある意味理論や実践においては到達することができず、どちらにも簡単には還元も解消もできないものとして我々を満足させる。しかしながら、それを狭く考えるならば、その欠陥は独特なものとなる。実在やそれ自体の主張をも満足させることに失敗するので、我々の問題を解決しない。

 

 美的なものは通常自立的で感情的なものとして定義されうる。すべてが美しさと醜さのもとに正確に帰属することは滅多にあり得ず、現在の目的にとってそのように見なすことが便利だということである。絶対においては醜さは、誤りや悪のように圧倒され、吸収されるのであれば、我々はここで注意を完全に美に限定してもいいだろう。

 

 美は自律した喜びである。それは自らの楽しみを享受する自律でないことは確かだが、そのように見る限り、それは美である必要はまったくない。しかし、美は自律したものでなければならず、その存在はそのようなものとして独立している。それゆえ、それは個として存在し、単なる観念にあるのではない。思考や、思考過程でさえも美でありうるが、自己充足しており、ある意味において感覚に対しているときだけである。しかし、美はまた、対象でなければならない。それは私の精神と関係をもち、また、区別される観念的な内容をもっていなければならない。我々は単なる感じを、たとえそれが感じと美との混合した複雑な全体であったとしても、美と呼ぶことはできない。そして美は、最終的に、現実に心地いいものでなければならない。しかしもしそうなら、それはまた誰かにとって心地いいものでなければならない。(1)

 

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 こうした諸性格の融合は不整合で、その矛盾を指摘する余地はさほど求められていない。最初に心地よさから、私との関係から抽象し、美は独立に存在すると想定してみよう。しかしそこでさえも、我々はそれ自体に矛盾を見いだす。というのも、存在と内容の側面は、一致し同じでなければならないからである。しかし、他方において、対象は限定されているので、そうした議論は不可能である。かくして、真と善との場合と同じように、広がりと調和の面において部分的な逸脱が存在する。表現は重要だが、また、表現されたものは狭すぎる。どちらの場合にも最終的に、調和が欠けており、内的な矛盾と現実における失敗が存在する。というのも内容は――それ自身どんな場合でもも常に限定されており、常にそれ自体と不整合である――その実際の表現を目に見えて超えでており、単に観念的であるからである。そして、他方において、存在する表現は多様なあり方また程度で、実在には足りないところがあるに違いない。もっとも強いものを取り上げてみても、結局のところ限定的な事実であるに違いない。それは外側から決められていることで、内的にはそれ自体との間に不整合があるに違いない。かくして、独立したものとしてみられた美的対象は、あらわれでしかない。(1)

 

        

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 しかし、美を独立した存在と取ることは不可能である。というのも、喜びはその本質に属し、喜びやなんらかの感情がそれと離れて存在すると想定することは問題にならないと思われるからである。それゆえ、美は私における性質によって決定されるだろう。そしていずれの場合にも、(すでに見たように)それは知覚の対象であるので、知覚に含まれる関係はその存在の本質でなければならない。知覚され感情的なものとして、美はそれ以外の何者かによって内的に性格づけられるだろう。その場合、明らかに、現象であることがわかる。あるいは、他方において、それは生の外的な制限のなかに含まれねばならない。しかし、知覚や直角が全体として吸収されると、全体的関係そしてそうしたものとしての美は消え去ってしまうだろう。

 

 美的対象において一緒になる多様な側面は、ばらばらになってしまう。美は真に直接的なものでも独立したものでもなく、それ自体において調和もしていない。そして、こうした要求を満たそうとすれば、自身の性格を越でなければならない。他の諸側面と同じく、これもまた仮象であることを示している。

*1:  (1)第十七章、また以下の第二十七章参照。

*2:(1)第九章、十九章、二十章、二十七章、『マインド』6号を参照。私は心理学における感じの位置づけについていたるところに書こうとしてきた。しかし、この本の目的には全体として、十分なことが云われていると信じている。

*3:(1)この区別は、疑いなく、時間のうちに発展する(『マインド』47ページ)。しかし、たとえそれが本源的なものだと想定しても、さらなる結論にどんな意味でも影響を与えることはない。

*4:  (1)先の章で我々はすでに善の矛盾を扱った。欲望と意志の本性については『マインド』49号を参照のこと。私が決定の意味について述べた43号も比較してほしい。実際、観念が正しく存在に通じず、単なる解決ではなく、意志について語ることが正当化されるような例が存在する。私が死後何かを起こす、あるいはいまはできない何かをするだろうというような場合である。ここでの過程は確かに不完全であるが、存在に向かう観念の運動が現実に始まっているので、正当に意志といえる。それは内的であれ外的であれ、すでに喚起される過去としてすでに始まっている。同じように、引き金が引かれ、撃鉄が降りたとき、誤射によって行為は不完全に終わるかもしれないが、発砲したとはいえる。他方において、単なる解決においては、観念と現在における内容の実現との両立不可能性は認められる。それゆえ、解決は現在における事実には直接向かわず、観念の充足に満足し、意志と呼ぶべきではない。過程は不完全でないばかりでなく、存在への直截な道に立ち戻り、逸脱する。解決はもしそれをある種の精神状態をもたらすものと考えるならば、内的な意志の一例と考えることができる。しかし、解決の生産があり、解決そのものがないときには意志である。

*5:(1)楽しみのなんらかの縁が有限な中心の外側に外れる可能性はきわめて薄いように思える(第二十七章)。その楽しみが対象である限り、関係は確かに本質的である。

*6:

(1)美における程度の問題は、真理や善の程度と同じく興味深いだろう。しかし、ここではそうした領域に入る必要はほとんどない。