ケネス・バーク『宗教の修辞学』 25

XIV.形象、感覚、誘惑、媒介者

 

睡眠中のイメージの話がどうして誘惑の主題に移るか。ジョイスの『若い芸術家の肖像』から節制についての一節を引用。アウグスティヌスの誘惑を査定する際の注目すべき細部。再び記憶の主題の始めで記したことに言及する朗々たる文章で要約がされる。次の段階。誘惑が媒介者の話に移る。媒介者の二重の本性が時間と永遠との関係の主題に導かれる。この問題は、今回は始まりの問題に還元されうる。

 

 第十巻第三十章は、アウグスティヌスの眠りを煩わす幻覚的なイメージとそれに対応したみだらな考えを論じている。続く数章は、諸感覚と心に関わる誘惑を数え上げ、それぞれの感覚の感じやすさを率直に測っている。ジョイスは、『若い芸術家の肖像』でスティーヴンが地獄の業火を説く説教で覚えた恐怖とその後の悔恨を描いた一節を書く前に、この数ページの記憶を新たなものにしていたに違いない。




 スティーヴンよりもずっと複雑なアウグスティヌスの自己査定の注目すべき細部は次のようなものである。食物を薬として摂ることを学んできたのだが、そこには脅威ともなる事実、単に空腹を満腹にすることが快楽だということがある。また、食べることの快楽は、健康への関心という偽装のもと隠されることもありうる。香りによって誘惑されるだけではない。言葉や音楽の音への好みにも抵抗しがたいものを感じている。しかし彼は、弱い心がより献身的なものとなりうるので、歌うことは許されるのではないかと考えたがっている。彼は視覚的な美にもっとも強く誘惑されるが、あらゆる美しいものは神から来ることを思い返すことによってそれを修正しようとしている。彼は知識それ自体への愛による「眼の欲望」である好奇心に反対するいつもの警告を与えている。

 

 別の箇所で彼は、この言葉に「無駄な」supervacuaneaという言葉を付けくわえているが、この言葉を科学者の中立な姿勢に当てはまるものとして本質的に称讃的に用いたヴェヴレンとは対照的に非難の意味合いで使っている。我々は、進んで注意を向け(advertimus)、それを知る以前に、つまらぬうわさ話を我慢することから始めることになろう。あるいは、なにか真面目なことを考えているにしても、犬が野ウサギを追いかけている光景は気分転換になろう(avertit)。それは彼を「転向」(convertit)させるが、ここではこの言葉は、彼が興奮へと「向きを変えた」という事実をあらわしている。彼は自己正当化への強い欲求(a libidine vindicandi me)から一時的猶予を得ようとしているが、ここで思い起こされるのは、子供のとき彼が復讐であるかのように泣き叫んだ(me flendo vindicabam)という記述である。恐れられかつ愛されたいという欲望は、幾つかの問題を提起する。社会におけるある種の任務は恐れられると同時に愛されることを必要とするが、ここでの誘惑は、神を支持するためではなく、神に成り代わって恐れられ愛されたいと欲することである。彼は、聖書の使用法に従って、「火炉」と呼ばれるものに強く執着してしまう自分について大きな疑い(第三十七章)を抱いている。(1)三十八章では、うぬぼれを嘲笑することにある独りよがりに悦にいることに対して訓戒することで輪を閉じている。最後の疑念は、自分自身のことに専念しているために、他人を喜ばせたり不快がらせたりしない者たちに対する訓戒である。

 

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 第十一章では、要約して、諸感覚に始まり、記憶の奥底まで進み(inde ingressus sum in recessus memoriae meae)、inが繰り返されるアウグスティヌスに特徴的な表現があり、それは第十三巻第十二章で、自分とアリピウスの回心に続いて、彼ら二人が彼の母親のもとにその変化を伝えに行く一節(inde ad matrem ingresimur,indicamus)と合致していると言える。ここで記憶についてもっとも響きのある記述がなされている。「無数の豊富さに満ちており、不可思議なあり方で幾重もの拡がりをもつ」――そして「重さ」によって押さえられた話が、次の主題、治癒的な媒介者という観念に移る手助けとなっている。

 

 かくして、記憶の分析は夢の形象を経由して誘惑の主題へと至り、それが一人の姿に生け贄と司祭、犠牲者と勝利者とが結びついた完璧な生け贄の範型の問題へと移っていく。媒介者の浄化的本性は、苦行の原理によって堂々と閉じられる。しかし、これは二重の本性を含んでいるので、厳密にロゴロジカルな観点からすると、媒介者は二つのかけ離れた領域を結びつけるものだと言える。これは「時間」と「永遠」の関係を探る用語的諸条件をしつらえるものであり――それは「初めに」という言葉にある両義性、聖書がそのはじめに「初めに・・・」と言うとき、なにが意味されているかを理解しようとするアウグスティヌスの努力に還元されるものである。

*1:(1)この言葉(fornax)は見た目と音がfornix(ホラティウスやユヴェナリスが「売春宿」という意味で使った言葉であり、そこからfornicatioという言葉が派生した)に非常に近い。こうした相違を指摘することがある種疑わしい余計な解釈と考える読者もいるだろうが、同じ文を手に負えない夢の問題が重荷となっている節制に関する次の文においてアウグスティヌスが繰り返しているという事実は少なくとも残る。