ケネス・バーク『宗教の修辞学』 26

XV.はじめに・・・

 

三位一体の三つの動機づけは互いに含まれ合ってはいるが、この章は、原則的に、聖霊よりはロゴスとしての言葉により直接的に関係している。アウグスティヌスの修辞にある力強い特徴は、聖書の言葉に従ったものであり、「永遠」が付与されている。「時間」と「永遠」を関連づけることにある技術的な問題を強調。文章の性質において「時間」と「永遠」に類似するもの。言葉が互いに含みあえることに「永遠」のロゴロジカルな対応物が見いだされること。時間のロゴロジカルな対応物は、叙述の直線的な性質にあること。アウグスティヌスがはじまりと関連して時間をあらわす言葉と永遠をあらわす言葉を関連づける主要な文脈の一覧。永遠なる沈黙のロゴスとしての言葉と時間にある神的な言葉。時間とも永遠とも理解可能な幾つかの言葉。(弁証法的には、この問題は次のように言える。本質的に異なった秩序をもつ二つの語群があるとき、第二の語群が第一の語群から発する地点ともなるべき言葉をどこに定めたらいいのだろうか?)聖書がなにをすべきか(終着点)教えてくれるという意味ではじまりとしてある言葉。神の意志(それゆえ聖霊もまたその企図に含まれる)と等値しうる言葉。スピノザが示すような汎神論の可能性。純粋なる現在としての永遠(イェーツのビザンチウムの詩に示唆されているような生きていることの永遠性と形式的な永遠性との相違)。時間の前や後にあるものとして永遠を語ることはできないという点。天の天は永遠に「参与するもの」ではあるが、ともに永遠なものではない。参与という観念にある分割の原理(ラテン語のabsにある両義性。ヘーゲルの三幅対が、三位一体の企図にある未発の分割をいかにあらわにしているか)。Exordium,initium,principiumの語源。天の天が永遠に参与するという言明のロゴロジカルな等価物。永遠に現在なものとしての「昼」。過去と未来はどうして現在としてしか考えられないか(動画からの類推)。アウグスティヌスは自分の考察に対するあり得べき反論に気づいているが、その探求は「好奇心」の領域の外側に位置づけられる。永遠の意味合いで用いられる言葉と時間的なものの意味合いで用いられる同じ言葉を区別するために、能動態と受動態の文法的な区別を用いること。行為の本質としてある無からの「自由な」創造(つまり、革新)。(スピノザの合理的で必然的な行為についての観点が同じ問題をいかに扱っているか。)完全に自由な行為という観念をあらわす「神」という言葉が、動力因に翻訳されること。創造することが形づくることであり、原書の物質が形のないものであるなら、形のないものを創造する神という問題も生じてくる(「創造可能なもの」と「形づくることが可能なもの」)。Principiumをprimo(「最初」)として理解する四つの方法。(1)永遠として、神はあらゆる事物に先行する。(2)時間として、花は果実に先行する。(3)選択として(electione)、果実は花よりも好まれる。(4)起源として、音は歌に先行する(こうした区別についてのロゴロジカルな注釈。)「現状打破」、そこでアウグスティヌスは三位一体の三つの格すべてが創世記のはじめでいかに言及されているかという「謎」を見ている。(このことが結果的に、創造を「エロヒスト」的でも「ヤハウィスト」的でもなく、「キリスト教」的なものとしている。)息子が父よりもよりはじまりにあるという意味。『三位一体論』にあるprincipium。息子のprincipiumとしての父。聖霊のprincipiumとしての父と息子。創造物のprincipiumとしての三位一体。「父」と「息子」は互換的な言葉であること。聖霊はそれが与えられる以前に「贈り物」として存在するという言明についてのロゴロジカルな解釈。アウグスティヌスが時間をあらわすのに使う伸びていくという形象。「時間の空間性」。神は本質的に空間よりは時間との類推のもと見られるが、「なかに」というのは本質的に空間的な概念であること。

 

注記:この章は最後の「司教制」的な四巻における用語論的発展を考察することが中心になっており、もっと徹底的な形で問題に踏み込むべきであったのにそうしなかったのは、それが次のエッセイの眼目となるからである。三位一体の動機づけに関しては、この章は聖霊よりもロゴスとしての言葉により直接的に関連している。つまり、「時間」に関わる言葉と「永遠」に関わる言葉との関係に含まれ根底をなす形式的問題は、principiumとしての創造的な言葉の問題の中心に位置する。我々の解釈によれば、この弁証法的事柄は、庭での決定的瞬間には圧倒的な力をもっていた愛の問題を直接的には含まないが、既に我々はアウグスティヌスの「永遠」の観念には精神の動機づけが満ちていることを見ている。事実、アウグスティヌス自身が記しているように(第十三巻第十一章)、存在すること、知ること、意志することはすべて互いを含み合っており、それゆえ本質的に切り離せない。

 

 これ以上に大きな弁証法的企てはなく、多大な修辞的力を必要とされるのは、アウグスティヌスが切迫し様々に共鳴する形で企てた「天の天」としての「永遠」の問題で、妻が夫に対するように自由で母なる平和の都市は神と関係し、神聖さ、善、十全性、愛、光、知恵、正義、慈悲、力、沈黙としてのロゴスである言葉に結びつくアウグスティヌスに特徴的な内面性、そしてin sinu Abrahamで来たるべき絶対的な休息を望むしがみつくにたるあらかじめ定められた回心の力がある。神がなにをするにしろしないにしろ、アウグスティヌスの聖書からの引用の蓄えはある余るほど豊かであり、その性質として直接的で個人的なことであっても、必要なときにはいつでもそれを永遠と等しくし、権威づけることができたのである。

 

 我々のここでの目的は、「永遠」と「時間」との関係を考える際に含まれる技術的な問題を強調することにあり、可能な限り、アウグスティヌスの見解を神学から「ロゴロジー」へと翻訳しようと試みることにある。つまり、言語という資材が与えられたときに、もし永遠が実際には存在しないにしても、永遠についてはなにを語ることができるだろうか。言語という制限のなかで、例え永遠が存在するとしても、そうした言明はいかに不適切なものたらざるを得ないだろうか。そして最後に、永遠が存在するにしろしないにしろ、神学的な教義をどう経験的でロゴロジカルな適用をできるだろうか。言葉に固有の資源と限界で「言語に絶した」領域を語るアウグスティヌスの「言語活動」をどう記述したらいいだろうか。

 

 アウグスティヌス自身が十分明らかにしているように、永遠を考える方法は、際限なく広がる時間からの類推によっている。しかしながら、それは過去から未来に広がっていくような時間ではないだろう。むしろ過去も未来もない一瞬の現在が永久的なものとされたようなものだろう。そして、その点において、それは不変なものとなろう。

 

 読者は実証主義に執着すればするほど、こうした区別は無意味なものだとより強く主張することになる。だが、ロゴロジカルな観点からすると、我々が原則として経験するようなformaliter「時間」と「無時間制」とが関係する領域がある。それは文の言葉とその「意味」との関係である。言葉の綴りは「生まれ」そして「死ぬ」。しかしそうした綴りの意味は単なる時間的な運動としての性質を「超越する」。それは文のどの部分にも、あるいはその全体にさえ還元されないような本質である。意味が物質的なもののなかにはない証拠としては、単に物質的に記された文は、我々がそれが語られたあるいは書かれた言語を知らない場合には、我々にとってなんら意味をもち得ないという事実がある。他方において、物質としての物質は、我々がそれを「理解する」にしろしないにしろ、我々に影響を及ぼす。我々が「脇に寄れ」という言葉に従うなら、その意味を知っていなければならない。しかし、実際に押しやる行為は、我々がその「意味」を理解しなくとも同じ効果をもちうる。押すことは物質的で、「時間的」である。語の音は物質的で、「時間的」である。しかし、語の意味は別の次元にある――ロゴロジカルな観点からすると、文の単なる物質性とこの別次元との関係は、「時間」と「無時間制」との関係に等しい。(しかしながら、「意味」もまた「物質的」なものであるという意味合いが存在することは認めよう。脳の正確な物理的運動が行なわれるとき、文は意味をもちうる。それゆえ、文の意味が本源的に「永遠」だと言おうとしているわけではない。「一時的な」綴りの連なりとしての文と意味の「固定した」結合としての文との関係は、時間と永遠の存在論的な区別を示唆する助けとなりうる形式的区別を与えるとは言える。)

 

 しかしながら、ある注目すべき点において、この類推は崩れ去る。というのも、もし我々が文のことを語るなら、「永遠」の類同物は「時間」の類同物に先行していることになる。しかし、我々が文を聴くとき、この関係は逆転する。しかしながら、永遠は時間に「先行」していなければならない。それは既に語られた文のようなものでなければならない。いや、それが唯一可能な順序というわけではない。時間的な綴りに先行する創造的な「言葉」以外にも、一時的で分離した綴りが再び内的なロゴスとしての言葉の沈黙、単一の意味に導かれるような教義上の言葉がありうる。

 

 しかし、いずれにしろ、我々はここではじまりの問題に直面する。文がある観念あるいは原理である限りにおいて、ある種の「はじめ」から言葉の実際的な選択を導く「最終的な目的」へと進むある計画に従っていることになる。だが、一歩一歩の時間的な順列である文の言葉は、文の各部分がそれに続く部分に「先行している」ので、別種類の「はじめ」を含んでいる。

 

 先行性という観念は様々な形を取りうるもので、創世記についての次のエッセイでは、この問題を我々の探求の中心にするだろう。そこで我々は、「永遠」のロゴロジカルな対応物では言葉がそれぞれ他を「含み」うるものであること、ある言葉から別の言葉への釈義的な移りゆきが、出発点となる言葉に含まれることで、結果的に「予定された」ものとなる。これを我々は用語の「循環的」で「同語反復的な」側面として扱うだろう。同様に、「時間」のロゴロジカルな対応物は、叙述の一方向的な「直線的な」ものだと言える。特に、創世記の創造の物語をいかにその言葉がこれら二つの側面にまたがるものであるかを示すように分析することになる。

 

 いまのところは、この問題に取り組む最良の方法は、「時間」と「永遠」がいかに関わるかを決めようとしたとき、アウグスティヌスが提示した様々な説明法を一箇所に集めることである。全体的に言うと、そこにはアウグスティヌスが聖書の冒頭の文に可能な意味を考察する際の「はじまり」や「最初」の有効範囲があり、「in principio」、真理は内部(intus)にあることがわかっていると彼は言う。

 

 第十一巻第六章、世界がそれによって創造された「永遠の言葉」は沈黙の内になければならないもので、というのも綴りが連続して生起し終わる物質と時間がいまだ存在しないからである。(この点に関して、彼は創造の際の命令をマタイによる福音書17:5の「雲が彼らを覆った。すると、『これは私の愛する子』」という箇所と対照している。これらの文は、実際には一方から他方へ、時間的な順列で進むと彼は言う。)神の創造の命令はそうした継起はなく、神自身とともに永遠である(第十一巻第七章)――そしてそれは事実上、神の知恵と同義である(第十一巻第九章)。それゆえ、この知恵(Sapientia)は同じくprincipumである。そしてそれが、「鷲のような」(詩篇103:5)若さを新たにするものと結びつく。第十三巻第二十九章で、聖書はどうして八回も「神はそれを見て良しとされた」と言えたかと彼は自問している。というのも、もし神の創造的な言葉が神とともに永遠であるなら、こうした継起によって時間的なものとなった創造は、結果的に、永遠よりも時間に位置づけられることになろう。彼は自らの「内なる耳」(in aure interior)で次のような神の答えを聞き、即座にこの問題を解決する。我々が聖書のテキストを引用するとき、我々は神の精神を通じて語っている。そして、我々はそれを時間の内において理解し、語るのだが、神はそうではない。(1)

 

(1)弁証法的には、この問題は次のような風に還元されうる。二つの異なった用語体系が存在し、第二のものが第一のものから生じると言われるとき、それら二つの体系が接触する用語をどこに位置づければいいだろうか(そこから生じる体系のprincipiumを記しづけるような用語である)。

 

〈ここで翻訳は中断される。残された少しの断片、〉

 

過去と現在、観念と感覚

 過去と未来は現在としてのみ考えることができる。(つまり、なにかを考えることは、それをいまとして考えることである。現代のフィルム動画は、ここでアウグスティヌスが考えていたことのもっとも完璧な例である。「過去の」出来事への「フラッシュバック」は、「いま」生じている出来事とまさしく同程度に直接的である。しかし、目の前にあるなにかについて考えるのと、いまはないなにかについて考えるのとでは顕著な相違がありはしないだろうか。「諸観念」と「諸感覚」とを区別する英国経験論者の説は、いま我々が暖められている炎の「イメージ」と我々が明日起こすであろう炎についていまもつ「イメージ」とを区別するような、その種の区別に基づいているように思える。



 

すべての行為の規範である創造

 

「無からのなにものかの創造」はまさしく行為の本質と言いうる。というのは、行為はそれが自由である限りにおいて行為であり得るからだ(もしそれが自由でないなら、強制的な運動でしかない)。そして、それが新しさをもち、それまでの必然的な諸条件の総体になにかをつけ加える限りにおいて自由となり得る(その限りにおいて「無からのなにものかの創造」と言いうるような寄与となる)。スピノザ的な自由と合理的で必然的なことをなすことを等価視する見方は、最初はこの観点と相反するように思えるが、「適切な諸観念」の発見に革新的な要素を認める場合はそうではない。そのとき、神の創造を示す命令はあらゆる行動の範例となる。それは「原理における」創造である。知恵はロゴスとしての言葉であるから、この原理と知恵とを同一視することは、結果的に、「行動」と「言語的なもの」、あるいはより一般的にいえば、象徴の使用(「合理的なもの」はその一種である)と同一視することである。かくして、中心は行為からそうした行為が可能な本性をもつ行為主という観念に移るにしても、「神」は完全に自由な行為の観念をあらわす言葉として分析されうる。



 

 

 しかし、このエピローグでの我々の主要な目的は、再び、『創世記』からロゴロジー一般へと範囲を拡げることにある。たとえば、諸項がお互いを「暗黙のうちに含みあう」あり様への我々の関心は、想起についてのプラトン主義の「神話的な」教義へと向かわせることになる。この教義によれば、この世界に逗留する魂は、純粋な「形相」あるいは「元型」の領域を瞑想していた以前の天上的な存在の曖昧な記憶をそのうちに携えている。そして、地上の事物を見るとき、物質的な不完全性のうちにある事物は、天上にある理想的な元型を思い起こさせるのであり————つまり、「発見」は実際にはむしろある種の「想起」なのだ。

 この教義は形而上学的に真実であるかもしれないし、そうでないかもしれないが、ロゴロジーによって分析すると非常に意味深い。たとえば、観念Bが観念Aに「暗黙のうちに含まれる」と言うとき、この関係を時間的に継起する諸項へと翻訳することはある意味神秘的な逆説を生みだす。というのも、観念Aからはじめ、それに暗黙のうちに含まれる観念Bを見いだすまで考えを推し進めたとすると、時間的な順列に関する限り、観念Bは観念Aに続くということになる。AからB行くような具合に、我々は時間のなかを進むのである。だが、Bがはじめから含まれているのである限り、Aのうちには発見に先立ちその意味が存在しているはずだ。かくして、別に意味においては、前に進むことは、なにかを思いだすことのように、むしろ後ろへ戻ることである。

 このことは、言語の実際的な使用と文法や統辞法の理論に関する書物についての関係を考えるとより明瞭できる。自然な条件のもとでは、人は文法や統辞法の諸規則をはっきりと定式化するはるか以前に言語を習得する。そうした諸規則は、言語的習熟の比較的後期において「発見」されるものであり、まったく見いだされないこともある。だが、それらは最初から「存在する」し、所与の象徴体系に暗黙のうちに含まれている。この意味において、それらを「発見する」とは、そうした「諸形式」を問い始めるまえになんらかの形で知っていることを定式化しているにすぎない。かくしてそれらはある意味「厳密には問いに先行している」のであり、理想的な「完璧な形」において漠然と「思い起こす」「記憶」にすでに存在している「元型」というプラトン的な見方と相似しているだろう。

 同じ観念についてもうひとつの可能な変異体がある。人は「あらかじめ回帰についての感覚」を持つことができるか。すなわち、もしある本質についての感覚があらわれてくるものなら、この本質(それなりの仕方で「完璧」である)は、「不完全」な形で本質を示唆する直接的な細部を複製していることになる。というのも、こうした細部が本質の徴候を示している限り、本質を「含んでいる」からだ。かくしてそれは、不完全に本質を含む諸細部において、そしてそうした細部が含む完璧な「原理」において「二度にわたって存在」する。