ブラッドリー『仮象と実在』 217

[それぞれが残りを含む]

 

 我々は異なった経験の領域を概観し、それぞれが不完全であることを見いだした。我々は確かに絶対がそれらのうちのひとつであるとはいえない。他方において、それはまたその残余でもないので、不十分で不整合なものと見ることができる。ある種の拡がりをもつそれぞれの側面は、すでに事実上、その存在において他者を含み、実在になるためにはそれらを全体において含み続けねばならないだろう。それゆえ、実在はその多様な領域の全体を含んでおり、別の側面においてはそれぞれが宇宙の部分的なあらわれであるように思われる。もういちど簡単にそれらを見ておこう。

 

 喜びや苦痛は、すぐにその本性は形容的であると見ることができる。楽しみや苦痛を知ることからはじめて、我々は直截的に世界の残りの側面を含むことができないのは確かである。苦痛や快楽は形容的であり、我々が見る限り、経験の他のあらゆる側面に結びつく形容であることを知ることで満足しなければならない。それらの形容の諸条件について完全な洞察を得ることは到達しがたい。しかし、もしそれを得ることができるなら、それが宇宙のあらゆる側面を含むことは間違いない。しかし、快楽や苦痛から感じへと進むと、その本質において不調和と発達の原理を検証することができる。内容と存在との諸側面はすでにして分岐へ向けて励んでいる。それゆえ、感じは単に外的な力によって変わるだけでなく、内的な欠陥においても変化する。事物の理論的、実際的、美的側面は働き出そうとし、存在と観念の分岐をよしとしようとする。かくして、それぞれは一面的で、感じから特殊に成長したものだと見られねばならない。感じはそれらの差異を統一した背景にとどまるが、その統一はそのどれも、あるいはすべてにおいても完全な表現を見いだすことはできない。欠陥は美的姿勢において明らかである。美は直接的実在に到達するよう試みるが、失敗する。というのも、たとえ実在を知覚との関係から切り離すとしても、完全性と調和の二つの要求のあいだで決して完全な一致は存在しない。事実、表現されたものはあまりに狭すぎ、より広い残りのものは不完全にしか表現されない。それゆえ、完全に美的なものとなるには、対象は完全に善であり、完全に真である必要があろう。その観念は完結し、すべてを包括し、自己充足的な存在としてあることが要求されるだろう。しかし、もしそうなら、真理、善、美の異なった性格が消え去ってしまうことになろう。もし我々が世界の理論的な側面に目を転じたとしても、同じ結論に到達することになる。もしそれが真なら、知覚や理論もまた善でなければならない。というのは、事実は思考とは異ならないものをあらわすと取られることだろうからである。そして、観念と存在との一致は確かなにまた善でもあるだろう。また個的なものであれば、美的なものであることは確かだろう。しかし、他方において、こうした分岐が吸収されてしまうと、真、美、善そのものはもはや存在しなくなるだろう。実際的な側面からはじめても同一の結果にいたる。調和と拡がりの完全な融合以外に完全に我々を満足させるものはないだろう。実際には限界のなかに存在しないいかなる観念をも想定される実在は、完全に善とはいえないだろう。完璧な善は観念的側面の完全にして絶対的な現前を含むことになろう。しかし、もしそれが現前するとするなら、完璧で絶対的な真理となるだろう。そして、存在と内容との個別の調和を伴っているので、それはまた美であるともいえるだろう。しかし、再び、区別される差異が消え去ってしまうなら、我々は美や善や真理を越えたところにいくことだろう。(1)

 

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*1: (1)現実の存在において、それらの側面は互いにいかに絡み合っているか指摘することは必要ではないと私は考えている。他のすべての側面は、多かれ少なかれ、思考の対象であり、思考によって生みだされたものである。思考はまた、そのすべてがその材料に依存しており、そのあらゆる観念に依存することになろう。そして同じ心的状態もそれを眺める側面によって等しく意志にも思考にもなることだろう(474ページ)。あらゆる状態も、ある程度において、感情と考えられ、受け取られることができる。