ケネス・バーク「純粋な」文学の三人の達人【『反対陳述』から』】2

 いままで、私は書簡における真に本質的な問題については論じなかった。つまり、彼の美学の研究との関係である。書簡を最後まで検討すると、フローベルは決して自分の気質にあった美学に到達できなかったように思われる。実際、彼がバルザックのような想像力に乏しい書簡を書かなかったという事実そのものがその証拠である。バルザックは自分の芸術において完全な表現に到達した。それゆえ、手紙において自分の個人的な野心や失望以外のことを書く必要を感じなかった。反対に、フローベルは自らの虚構に対するなんらかの補完物の必要を無意識のうちに感じていた。このことによって、フローベルの作品がバルザックの作品に較べて劣っていると言いたいわけではない。バルザック下士官の頭脳を持っており、そのように書いた。フローベルは自分の性質を最も偉大な傑作のようなものであり、自然の産物、動物たちや山々のように、ある種の緩慢な「愚鈍さ」があるとしていた。彼は堂々と自ら語っているように「bas,bouffon,obscene tant que tu voudras,mais lugubre nonobstant」であった。

 

 彼の文学的な方法に関連して書簡がもつ最も目立った意味合いは、その表現手段が彼が最も望んだ結果に合っていないということにある。「私は大いに批評に心が惹かれています。私が書いている小説は、批評作品、もしくは解剖とさえ言えるものなので、私のその方面の能力をとぎすますのです。」そして彼は自らの仕事場におけるこのはなはだしい異端につけ加えてこう言う。「読者は形式の下にかくれた心理学的な労苦には気づかないでしょうが、その効果を感じ取ることでしょう。」出版された後その本について彼が「Tout ce que j'aime n'y est pas」と言ったのになにか不思議はあるだろうか。だが、なぜ彼が愛したものすべてがその本には欠けているのだろうか。あるいは、なぜ彼はその本の特徴でもある「心理学的な労苦」を隠すことを望んだのだろうか。「On me croit epris du reel,tandis que je l'execre;car c'est en haine du realisme que j'ai entrepris ce roman」その本(『ボヴァリー夫人』)は、と彼は続ける、par parti prisによって書かれた。残りは偶然的なものである。

 

 1852年に書かれた手紙は、彼の陥っていた難局を最も端的に示している。

 

 「私にとって美しく思われ、最も書きたいと思っているのは、中身の何もない本、外とのつながりが全くなく、スタイルの内的な力によって保たれているような本です・・・それが可能なら、ほとんど主題がなく、或はあったとしてもほとんど眼に見えないものとなるでしょう。最も美しい作品とは、材料が最も少ないものです。・・・私はこうした方向に芸術の未来があると信じています。」

 

 そして、二十四年後、ジョルジュ・サンドへの手紙にこうある。

 

 「私はアクロポリスのむきだしの壁を見たときに経験した胸の高鳴り、鋭い喜びを記憶しています・・・どうでしょう。私はそれがなにを言っているかには関わりなく、同じような効果を生みだせるような本がないものかと思います。正確な配合、材料の希少性、宗教的熱情、一般的な調和――ここにはなにか本来的な美徳がないでしょうか・・・永遠なるなにかが原則となっていないでしょうか。」

 

 フローベルがどの著作も欲求不満や嫌悪感を抱いて終えているのも不思議ではない。関節ごとに鉛の玉をつけてピアノを演奏する者のように本を書いていると不満を漏らすのも不思議ではない。彼はその思索においては、方法的な勝利を、主題から自由な芸術を考えることできた――しかし彼が何年にもわたって従事したのは、辛抱強い細部の積みかさね、彼の弟子たちが彼が意図しているのだと見なした細かい部分の正確さだった(彼自身は、その必要性を信じていたときでさえ、それらには二次的な重要性しか求めていなかった)。この異常な状況は、芸術の雄牛を疲労させるだけだったろう。

 

 彼は自分が二つの矛盾した姿勢の中間にいるのに気づいていた。一つは「気取り、叙情、巨鳥の羽ばたき、朗々たる散文」への愛であり、もう一つは、自分の本が「ほとんど物質そのまま」であるかのように読者に感じさせようという望みである。彼は多くの点で顕示する芸術に対する好みをもっていたにもかかわらず、隠匿する芸術の美学のもと書こうとしていた。作家は(彼自身は率直に、それほど確信のもてない者は避けるだろうと言っているが)「金と同様輝きを愛して」おり、彼は輝きが障害物であるようなジャンル、ごまかしや効果の純粋性を危険にさらすことによってのみ修辞的な素晴らしさを得られるジャンルを用いるのである。小説は経験言語化する文学であり、を言葉に変換することである――芸術の絶対的な効果を公言しているフローベルは、経験を言語化する文学をつくり、生を言葉に変換しようとしている。シェイクスピアシャトーブリアンの讃仰者でありながら、スタンダールの美学で書こうと試みているのである。

 

 だが、小説家としてのスタンダールは、芸術が出しゃばることを軽蔑していた。彼の最大の野心は、読者にそれが文章であることを忘れさせるような文を書くことだった。彼は身代わりであるかのような小説を完成させ、その小説は文学として読まれるのではなく、生きることの代用だった。スタンダールがもしユーゴーのL'Homme Lui Ritを書き直すなら、奇想、逆説、二律背反、隠喩、などこの作品を驚くべきものとしている突出部分をすべて取り除くことから始めるだろう。それが持っている「文学的な」代表作としての特徴をすべて破壊し、読者にこの本が「書かれたもの」であるという印象を与えないようにするだろう。こうした方法の美質がいかなるものであろうと、文を文として、目的のための道具ではなくそれ自体が目的であるものとして愛するものには有害である。

 

 フローベルがよりリアリスティックではなく、より美辞麗句を使って作り上げたのが『聖アントニウスの誘惑』だった。そのきらびやかな夢は演劇的で、見せ物的でさえある――『書簡』でのこの作品への言及は興味深い。他の作品を書いているときのむかつきは、本を作り上げているときの単なるいらだたしさよりも根本的ななにかを示している。それは第一原理の、手続きにおける失敗を示しており、その種の代表作(『ボヴァリー夫人』のような)であっても、その努力に見合った満足を芸術家に与えられないことを示している。しかし、『誘惑』の場合は違っていた。むかつき、闘争、超人的な征服の代わりに、彼はこう言っている。「聖アントニウスのあのよき日々は再び戻っては来ないだろうか。」色々なところで言っているが、この作品において彼は心安らかであり、「ただ進むだけでよかった」。「しかし」と彼はつけ加えている、「まことに豪勢な十八ヶ月の間手にしていたこうしたスタイルの狂乱を私は決して取り戻すことはないだろう。どれだけ熱心に首飾りのための真珠を私は集めたことだろうか」と。

 

 フローベルの問題の本質は、彼がほのめかしているようなプラトン的な言葉では曖昧になると思われる。「純粋な形式」と「純粋な材料」との区別は、無内容について美しく語る本について考えることを可能にするが、方法論の個別な問題についてはなんの示唆も与えてくれない。芸術を隠す芸術と芸術を誇示する芸術、リアリズムと美辞麗句、観察と儀式、情報と礼式の相違はより議論の余地がある。それらはまた、フローベルがその関心の言語的な側面を抑圧するのが正しかったと多くの読者に感じさせてしまうのではないかと心配でもある。というのも、我々が自分の日記に数多くの情報を書き込み、最大の野心がその言葉が「意識されないようになる」ことで、「意識される」のが書き手の性急さが間違った文章を産みだしたときだけなのだとしても、我々の多くは自分の最も芸術的な散文においても同じ「明確さ」を求めるからである。フローベルに関しては、彼の選択は、最終的には主に回避にその美質があるようなたぐいの散文に落ち着いた(あまり多くのを使わないという回避、代名詞を先行させることによる曖昧さの回避、呼吸に合わないような節回しの回避、発音しにくい母音をつなげることの回避)。彼の選択は、ユゴーのような攻撃的な「書かれた」スタイルへと進むことを阻むものであり、彼に対してフローベルはほとんど惨めなまでの畏敬の念を抱いていた。そして、書簡はフローベルが自分の選択において幸福ではなかったことを示しているだろう。