ブラッドリー『仮象と実在』 219

[宇宙は思考と意志に還元することはできない]

 

 この一般的な結論にあるとき、我々は先に進むことができる。ひとつあるいは二つの特殊な経験の有り様を絶対に還元することは問題ではないことを仮定し 、我々は直ちにその本性と統一の最終的な議論を試みることができる。しかしながら、この種の提示された還元をより密接に考慮することが教えとなることだろう。実在は思考と意志の同一として正当に説明されうるかどうか問うてみよう。しかし最初に、十分な説明が含まねばならないいくつかの点を思い起こしておこう。

 

 宇宙を理解するためには、我々はいかにして特殊な感覚材料がいたるところで関係し形を取り、また、快と苦がいかにそれらの形や性質と関係しているかについて知ることが必要となる。我々は更に、関係に関する意識の完全な本質と個別の項の統一と多数性の関連を理解するべきである。なぜすべて(あるいはほとんどすべて)は直接的な感じの有限な中心となり、どうしてそれらの互いに関連しあう中心が直接的に先立つことがないのかを知らねばならない。存在から内容への永続的な転換、明らかにすべてが意志や思考へと含まれることが確かに思える出来事が時間における過程としてある。物理的世界もまたある種の問題を示唆しているだろう。実際に自然にはそこで働く観念と目的があるのだろうか。そしてなぜ、我々のなかで、また我々なしに、存在が思考に答え、個人的な同一性や魂のあいだの交流が可能になる知りうる配列が存在するのだろうか。端的に、我々は一方には多様性と限定があり、他方には統一がある。そして宇宙においてそれらの側面がどのように互いに位置しているか知らなければ、宇宙は説明され得ない。

 

 しかし、ここで想起してもいいのは、部分的な説明でもないよりはいいという説である。この場合、重大な誤りをもたらすことになろう、というのが私の答えである。経験のすべてからある種の要素、または諸要素を原則として取り、全体において説明されない顕著な側面が残ると仮定することを認めることになる。さて、そうした側面が宇宙に属し、それゆえ、あなた方のいう諸要素には含まれない統一の述語でなければならない。しかし、もしそうなら、その諸要素は未知の統一の形容となるので、すぐに降格されてしまう。それゆえ、反対は、あなた方の説明が不十分だというのではなく、その原則そのものが意味をなさないことにある。その働きにおいてあらわれと主張しているものを究極的なものとして提示することになる。部分的な説明は間違った見せかけの知識を事実として含むことになる。