一言一話 123

 

 

先入見の擁護

 あなたがおわかりになるように、わたくしは、この啓蒙の時代においてつぎのことを告白するほど、大胆なのである。すなわち、われわれが一般に、教育されたのではない感情の持ち主であること、われわれが、自分たちのふるい先入見をすべてなげすてるかわりに、それをたいへんだいじにしていること、さらに恥ずかしいことには、われわれは、それらが先入見であるがゆえにだいじにしているということ、それらが永続し普及すればするほど、われわれはそれらをだいじにすることを、わたくしは告白する。人びとが自分自身だけの理性のたくわえで、いき、かつ、商売するようになることを、われわれはおそれる。なぜなら、各個人のたくわえはわずかであり、諸個人は、諸国民と諸時代の共同の銀行と資本とを利用するほうがいいだろうと、われわれはおもうからである。われわれの思索家のおおくは、一般的先入見を破壊するかわりに、それらのなかにみなぎる潜在的な知恵を発見することに、かれらの英知を使用する。もし、かれらが、もとめているものをみいだせば──かれらは、めったに失敗しないのだが──、かれらは、先入見の衣服をなげすててはだかの理性しかのこさぬよりは、先入見を、それにつつまれた理性とともに持続するほうが、かしこいと考える。なぜなら、理性をもった先入見は、その理性に行動をあたえる動機と、それに永続性をあたえる愛情とを、もつからである。先入見は、緊急のときにすぐ適用できる。それはあらかじめ、精神を、知と徳とのたしかな道筋にしたがわせる。そして人を、決定の瞬間において、ためらわせ、うたがわせ、困惑させ、不決断にさせておくことを、しないのである。先入見は、人の徳を、一群のつながりのない行為でなく、かれの習慣とする。ただしい先入見によって、かれの義務はかれの本性の一部となる。

先入見などという言葉をあえて使うところが小憎らしい。