ブラッドリー『仮象と実在』 220

[このことを詳細に示す]

 

 我々はこの結果を、世界の他の側面を知性と意志に還元することを提案することで裏づけることができる。詳細にそのことを見るまえに、あらかじめその必然的で主要な欠陥を述べることができる。宇宙のあらゆる特徴が二つの側面にはっきりともたらされたとしても、宇宙はいまだ説明されないままに残る。というのも、一方が他方を含み、実際他方であるとしても、二つの側面はある意味においていまだ二つであり続けねばならないからである。いかにそれらの多数性が、どこにその多様性があるか、どこでそれがひとつとなるのか知らないならば、我々は失敗に終わる。我々の原理は結局のところ究極的なものではなく、説明されないままの統一の二つの外観であるだろう。しかしながら、提案された還元をより深く検証すれば報いられることが多いかもしれない。

 

 このもっともらしさは主としてその漠然としたところにあり、その力は意志と知性に与えられている不確かな意味に基づいている。我々はそれらの用語をよく知っているように思い、それを適用するのに危険はないと感じているが、知らぬ間にその意味が変化するような用い方に足を踏み入れてしまっている。我々は世界を説明しなければならないが、我々が見いだすのは二つの側面の過程である。常に観念と事実が解き放たれ、この回帰する矛盾を新たな存在において修復することになる。我々はどこにも固定した厳然たる実体を見いだすことはない。それらは観念的内容全体の相関物であり、基礎となる二つの側面が絶え間なく変化する。同一性、永続性、連続性はどこにあっても観念的である。それらは創造されたものの統一であり、存在の恒常的な流れ、喚起され、それらを支えそれらの生の本質である流れによって破壊される。さて、宇宙をこのように見るなら、観念が事実において存在から離れるところではどこでも思考について語ることを選ぶことができる。そして、統一が再び修復されるところではどこでも意志について語ることができる。そして、自明であると思えるこの導入口とともに、世界の二つの主要な側面は説明を見いだすように思える。あるいは、この結果をさらなるあいまいさに包むことによって自らを助けることも可能である。というのも、あらゆるものは、結局のところ、時間にあるか時間において生じるからである。それが生じる限りにおいては意志において生みだされ、存在する限りは知覚や思考の対象であると言うことができる。考慮なしにやり過ごすときには、世界の過程は二つの側面をあらわにするものと見られよう。思考はこの過程の観念的な側面であり、他方において意志は、観念を実在のものとする側面としてみなければならない。そして、現在のところ、意志と思考はそれ自体多かれ少なかれ自明のものだと仮定することにしよう。

 

 さて、最初に、こうした見解は我々が観察するよりも非常に多くのものを仮定するよう我々を促す。というのも、観念性はすべて思考によって生みだされるものとは思えず、現実の存在は確かに、意志の結果としてそのすべてがあらわれるものではないからである。後者は我々自身においても、自然の過程においても、また我々が知る他者についても明らかである。そして、観念性、あるいは事実と内容の乖離に関していえば、それは至るところで現象の共通のしるしである。もっぱら思考に限定されることでも、思考に特徴的なことでもないように思える。思考は一般的に関係の形式と共存するようには思われないが、観念的な区別を創造すると同様に受け入れるはずだといわれている。端的に、観念性は心的な変化の結果や、正確な意味ではいかなる思考にも含まれているとは思われない過程の結果としてしばしばあらわれる。それらは難点であるが、おそらくは扱うことができる。というのも、魂の可能な存在に限界をもうけることができないのと同じように、思考と意志の可能な働きに束縛を与えることはできないからである。それらをそこここで見いだすことに失敗し、我々の内側にあるのか外側にあるのかわからないのは、その存在がどこかにもないことを証明するものではない。未知の存在である魂がそれ自身の生命や共通の世界を持てるように、意志と思考の結果も、現実の過程が経験されないところに自らを見いだすかもしれない。機械的な生起としてあらわれるもの、あるいは私がこれまでなしたことのない観念的な区別としてあらわれるものが、にもかかわらず、そして本質的に、意志であり思考であるかもしれない。それは完全に、あるいは部分的に、私の外側にあるものとして経験されるかもしれない。私の理性や他の有限な中心への企図はただの偶然であるかもしれず、その理解可能な働きは謎めいた必然性として綿祭に打ち当たるかもしれない。しかし、より高次な統合にとっては、我々の盲目的なもつれは明晰な秩序である。不調和な世界、なかば完成し、偶然的な世界は、共謀し補い合う個物からなる全体のうちにある。そこにあるすべてのものはその働きがひとつである二つの機能が結び合った結果であり、そのあらゆる詳細にわたるまで知性と意志とがだしたものである。確かに、こうした教義は、個物が検証されない限りは過程である。しかし、一般的に、また合法な推論と必然的な結論として追究される。

 

 私が出そうとしてこの結論の途次で、動かしがたい他の難点を見いだす。快と苦、また感じと美的意識の事実も存在する。さて、思考と意志はそれらを説明することができず、思考と意志を伴ったそれらは統一に関して説明されないものとして叙述されねばならず、統一は結局のところ未知である。第一に、感じは知覚と意志の無関心な根拠とはなり得ない。というのも、もしそうなら、この根拠は説明を必要とする新たな事実を提示するからである。それゆえ、感じはある種の混乱、より近くから精査すれば別々のものとなる星雲と取られなばならない。美的な姿勢は、おそらくは、我々の機能双方の知覚された平衡と見なすことができる。もし統一が思考と意志のようなものであるなら、そうした姿勢は混乱の原因にとどまるのは確かだと認めねばならない。というのも、それは双方とも多様なものとして派生することがほとんどあり得ないように思えるからである。それらを統一として取るなら、他方において、そのどちらかを含み、考慮に入れることに失敗するのは確かである。もし我々がこのことから快と苦に進むなら、別の難点を手にすることしかない。というのも、我々の二つの働きに結びつく形容は最終的には説明不可能で、他方において、この関連が自明なものだとは知覚されないからである。事実、我々は意志と思考の同一性を形容するものとして言及されねばならない世界の側面を認めることに向かいながらも、意志や思考に含まれるものが不確かなままにとどまっている。しかし、このことは事実上、思考と意志が宇宙の本質ではないことを許すことになる。 

 

 内的な難点を考察することを続けよう。意志と理解はそれぞれ自明なものであり、他方において、それぞれが明らかに他とは異なりその特殊な存在を失う。というのは、意志は観念と事実との区別を想定し——その区別は過程によって現実的なものであり、多分意志によってそれ自体となる。そして、思考は意志だけがつくることができる存在から出発しなければならない。それゆえ、意志は一面においては思考に依存しているが、思考は意志を前提とし、意志によってつくりだされるかに思われる存在する過程である。我々は統一という側面を強調するとこの反論に出会わねばならないと思われる。二つの働きは実際には分けることができず、それゆえ一方が他方を含み、前提するのが自然である。確かに、我々はいたるところにこの種の休みない円環を見いだすが、ここでは次に進むことにしよう。意志と思考はいたるところで互いに含みあっている。観念のない意志、意志に依存することのない思考はどちらもそうしたものではないだろう。ある範囲においては、意志は本質的に思考である。そして、本質的に、あらゆる思考は意志である。また、思考の存在は意志が存在となる目的であり、意志は反省や理論の構成の対象である。それらは統一においては二つの明らかな働きであるが、それぞれの働きはそれ自体においてはいまだ両者とも同一性をもっている。そしてそれぞれがほとんどそれ自体ではあり得ず、他でもなく、それ自体から優越した存在である。というのも、もしなんの支えもなくそれだけであるなら、どちらも主張できるような相続分をもっていないように思える。意志と思考は、我々が抽象し、一面だけを考慮する場合においてのみ異なっている。あるいは、より平明にいえば、その多様性は単にあらわれに過ぎない。

 

 しかしながら、思考と意志が真に相違していないなら、それらはもはや二つの要素でも原理でもない。世界の多様性を説明する助けとなるよく知られた二つの多様性ではなくなる。というのも、もしそれらの相違が現象ならば、いまだそれらはもっとも説明を要する現象だからである。我々は説明を求めるために意志と思考の外側に出ることはない。だが、その内部にとどまっているには、我々はそのいずれも発見できないように思える。同一性が差異を説明しないのならば、両者の同一性は解決にならない。というのも、この差異こそが解決が求められる問題だからである。我々は偶然と限定的な過程を得るが、この過程には二つの主要な側面を指摘することはできない。こうした過程を説明することは、なぜまたいかにそれがすでに知られている多様性を持ち支えているかを述べることである。しかし、意志と思考を還元すると想定することで、我々は二つの名称に二つの説明されない側面を与える以上のことはほとんどない。というのも、他のあらゆる困難を無視しても、いまだ主要な疑問が残っている。なぜ思考と意志は分岐し、あるいは分岐しているように思われるのだろうか。それは有限の事物からなる現実の世界での真の、あるいは明白な分岐である。

 

 あるいは別の側面からの問題を検証してみよう。意志と思考は、時間において与えられた過程を説明するために訴えかけられており、それぞれがその本性において時間的な継起を含んでいることは確かである。さて、時間における過程は現象であり、そうしたものとして絶対を含んではいない。そして、我々が思考と意志が相互的補い合うな二つの過程であると主張するなら、我々は現にある場所に取り残される。というのも、そうした場合、どちらも真の統一の述語たり得ないからであり、現象の多様性とともにある統一の性質は説明されないままに残る。時間における継起を単なる知覚の側に置き、意志を弁護しても、そのように取り出された意志は真実には過程ではなく、ほとんど我々の助けにはならない。というのも、意志が内容を持ち、その内容が知覚可能で、時間的経過を含まねばならないならば、意志は結局のところ、それが意志する以上の高さに立つことができないのは確かである。そして、観念的内容がないなら、意志は未知なものに対する盲目的な訴えかけに過ぎない。それ自体未知のものであり、この未知のなにかは知覚の説明されない世界を形容することを強いることになる。

 

 かくして、最終的には、意志と思考は現象の二つの名前である。どちらも、それ自体としては最終的には実在に属すことができず、その統一も多様性も説明できないままにとどまる。部分的、相関的には提示されるが、究極的な説明が与えられることはあり得ない。

 

 しかし、もしその統一が未知ならば、それをそれらの統合といえるだろうか。それ自体が現象の全領域を覆っていると正当に言えるだろうか。もし我々が観察されないところに思考と意志とを仮定するなら、我々は少なくともある誘因をもつべきだろう。そして結局それが我々の世界を説明することに失敗するなら、誘因は消え去ってしまうように思える。それらの項目に現象を期すことを余儀なくされたとしても説明されないままにとどまるなら、なぜ我々はすべての現象を二つの項目に分けるべきなのだろうか。現象にはそれ以上の種類があり、そのうちの二つだけが認められ、その統一が直接には接し得ないが経験の様態としては許されるとした方がいいのは確かではないだろうか。この結論は、我々が先の難点を思い起こすならば、肯定される。快、苦、感じ、美的意識は知性と意志の統一に包摂されることはほとんどあり得ないことだろう。また、感覚的性質と配置との関係、物質と形式とのつながりはまったく説明されないままにとどまる。端的に言えば、思考と意志の統一がそれ自体自明であるにしても、世界の多様な側面はほとんどそれに還元することはできない。他方において、たとえこの還元が完成したとしても、意志と思考の同一性とその多様性はいまだ理解されない。時間の有限性と過程がその分岐に還元されるなら、どのようにそれは分岐するのだろうか。そうした質問に対する答えが的を射ていない限り、還元が最終的なものになることはあり得ない。



 世界は二つの対照的な働きのあらわれとして説明できないこと、この結論をもって我々は次に進むことを主張できよう。しかし、いずれにしろ、こうした働きは我々が知性や意志として知るものと同一視することはできない。多分この点について少々考えてみてもいいだろう。上で仮定したことは、意志と思考はそれ自体自明だということだった。我々はそれら二つの働きがどれだけの基盤を覆っているか疑いが存在することを見た。観念化の働き現実化の働きの存在、独立性と主要性のそれぞれは我々はそれを当然のことと見なす。しかし、思考と意志として我々に与えられた事実を考えると、我々は要求された力が見いだされないことを認めねばならない。というのも、範囲の問題を離れても、意志と思考はどこにおいても自明でもなければ主要なものでもない。その働きのそれぞれは先行する関連に依存し、その関連は常にある意味外的で借りられたものである。このことを簡潔に説明するよう努めてみよう。

 

 思考と意志は確かに移行を含み、その移行は自明のこととしてかつて取り上げた。それらはまさしくその働きに自然に含まれるなにかと見なされ、それゆえ我々はその基盤についてのさらなる問題を認めることはない。しかし、我々が思考と意志に経験において立ち戻るなら、そうした仮定は反駁される。というのも、現実の思考において、我々は特殊なつながりに依存しており、その与えられたものを離れるなら、我々が考えることができないのは確かである。それらのつながりは単なる思考の本質に内在するものと取ることはできず、というのも、そのほとんどは少なくとも経験的なように思え、外側からもたらされるからである。そして、いかにそれらが自明に見ることができようか完全に理解することはできない。この結果は我々が区別をしようと考えるとき肯定される。というのも、第一に、区別は大部分、その正確な意味において我々の思考から離れて成長するように思える。次に、思考の区別する力は、差異に先立って存在し、そこにあるように思え、働いている。かくして、それは獲得し経験した関係に従った結果である。(1)端的に言って、思考の現実の移行は自明ではなく、別の言葉を使えば、思考に内在的なものではあり得ない。もし我々が意志に移るとしても、その過程がよりよい状態で見いだすことはない。というのも、我々の行動は自明でもなければ意志に内在しているわけでもない。自然から、そして我々の意志が関わるようには思えない自身における出来事を抽象してみよう。我々の注意を、我々の観念が現実に存在するように思える事例に限定しよう。しかし、事物への移行はあまりにも明白で説明を要さないのではないだろうか。ある場合には欲望された観念は欲望されたままにとどまり、別の場合には現実の存在となる。どうして一方はそうなり、他方は別のようになるのだろうか。「なぜなら第二の場合には」とあなたは答えることができる、「意志の行動が存在し、移行を説明し関わるのはこの行為である」と。さて、他方において、ここで行為が移行なのだとは答えないだろう。私はいまのところあなたの途方もない能力の存在を受け入れるとしよう。しかし、なぜあるものが意志され、別のものが意志されないのかと質問が繰り返される。この差異は自明、明瞭であり、すぐに意志の平明な本質があらわになるのだろうか。というのも、もしそうではないなら、それは確かに意志によって説明されないからである、それは働きの外部にあるなにかであり、外側から与えられるかもしれない。かくして、意志と思考同様、我々はこの同一の結論を受け入れねばならない。特殊な行為と離れて意志も思考もなく、それら特殊な行為は、意志や思考と同じく明らかに自明ではない。それらは本質において外側から与えられるつながりを含んでいる。それゆえ、意志と思考は、疑いなく存在している場合でさえ、依存し二次的なものである。最終的に、それらの働きのどちらに還元することでも説明することはできない。

 

 心理学に依存しないこの結論は、それ自体指示され肯定される。というのも、意志と思考は、ある意味において、我々がよく知るものであり、明らかに第一のものではない。それらはいまだ存在しない、そして十分にそうなることはできない基礎から発達するものである。それらの経験は心的な出来事や偶然に従うものであり、思考や意志と区別されない。そしてこの基礎は、いわば決してどちらにも吸収されはしない。それらには差異があり、その特殊な性格は決してその内容に特殊化されはしない。別の言葉で言えば、意志と思考は本質的にどちらかに依存することはなく、心的要素なしには外的なままにとどまり、その過程は止まってしまうだろう。つまり、共通の法則をもった共通の実体がある。そしてこの物質については、意志と思考は一面的に適合するだろう。その生を使い尽くすことなく、それらはその内部に従属的な働きとして含まれる。それらは依存するものとして、部分的な発達としてそこに含まれる。

 

 この真理を十分に解きあかすことは心理学の仕事であり、いくつかの主要な点を簡単に述べることで満足すべきであろう。思考は先行する観念性の土壌から発達する。内容と存在との分離は創造されるものではなく、成長するものである。存在と混合の法則はすでにそれ自体観念的要素の働きを含んでいる。これらの法則のもとで、思考は立ち、その現実の過程から派生する。それは盲目的な圧迫や変化した感覚であり、それらの法則で働き、最初に心的事実から観念の内容を解き放ちはじめる。それゆえ、思考そのものが観念働きの成果であり、創造者ではない。そこに関連した形式の一般的な起源へのあきらかな洞察が含まれているからといって、思考の発達が十分に説明できると意味しているわけではない。我々が細部にわたって単なる感じという段階からの移行を追いかけ追認できることには疑いを抱いている。しかし、少なくとも、なんらかの区別が思考に先行するとは主張でされよう。総合と分析はどちらも、心的な成長としてはじまる。それぞれが先行し、それから思考へと特殊化し組織化される。しかし、もしそうなら、思考は究極的ではない。一瞬たりとも唯一の親であり、同一性の源泉であると主張することはできない。(1)

 

 そして、もし思考が第一に働きとして捉えられるなら、最初から区別と総合を含むものとされるなら、この間違った基礎のもとにその依存する性格が導かれるのはたやすい。というのも、思考が存在する関連や区別、観念的な関係など――それらはどこから来るのだろうか。個的なものとしてはすくなくとも部分的にはそれぞれにおいて特殊であり、そうした特殊な本性は、少なくとも部分的には思考に可能な能力からくることはあり得ない。それゆえ、思考の関係は経験的なものに依存しなければならない。それらは部分的には知覚や単なる心的過程の結果である。それゆえ(上で見たように)、思考はそうした外的な材料に依存しなければならない。そして我々がどれだけそれを一時的で本来的だととったとしても、独立してはいない。というのも、それはどのような場合でも、材料となるものが本質的な働きのなかに吸収されることは決してあり得ないからである。つながりはなじみのもので気づかれないかもしれない、その継起は分断されることなく進むかもしれない。反省においてさえ、我々の特殊な配列は真の体系であり、そのつながりは単なる隣接に基礎づいているわけではないことを確信するかもしれない。しかし、他方において、もしこの観念的な体系が単なる思考から来たものでありうるなら、あるいは思考で成り立っているものでありうるなら、答えは異なったものにならなければならない。なぜ特殊なつながりはまさにこうなり多かれ少なかれ別のものとならなかったのか――これは最終的には思考だけでは説明できない。かくして、もし思考がその起源にあり、二次的なものでないなら、その本質はそのままにとどまる。観念的な事柄においてはそれは単なる心的な成長から来たもので、観念的なつながりは部分的にはあらかじめ想定されたものであり、それ自体において成り立ったものではない。つながりは、つくられたと想定されたとしても、虚構として関係がないものとされよう。それゆえ、心理学的な観点からすれば、それらのつながりは固有でも本質的でもない。しかしより正しい見方によれば、すでに見たように、思考もまた発達する。それは自らに依存することがない過程を発達し、その過程に存する。結論は次のように要約される。確かに、あらゆる関係は観念的であるが、すべての関係が思考の産物ではないことも確かである。(1)



 もし我々が意志に戻るなら、心理学はそれが発達し二次的なものであることを明らかにしている。観念はそれだけでは事実を越える力をもっておらず、その過程を実行する役目にあるものでもない。あるいは、議論のために、そうした能力が存在し、ある種の観念は(すでに見たように)外的な助けを借りることを要求するとしてみよう。端的に言って、この能力は特殊な具合に喚起されなければ働かない。しかし、意志をつくりだすもの、あるいは少なくとも意志を意志として振る舞わせるものは、意志の存在が独立しているという条件なのは確かである。簡単に言えば、意志は心的かつ物理的な、あるいはまた、単に生理的な関連である連合に基づいている。それはそれらを前提とし、その働きにおいて含まれているので、それらを本質の一部として考えないわけにはいかない。意志の本性については非常に多くの多様な教義があるのはわかっているが、そのいくつかについてはまじめに考えないでも正当化されうると感じている。健全な心理学は心的物理的な連結、意志によるものではないのが確かな連結を意志が前提とし、依存していることを想定しなければならないだろう。、ある成長のある段階において意志が前提とされる働きをその特殊な本質に吸収してしまうのではない。もしそうなら、意志が一時的なものと受け取れないことは確かだろう。