ケネス・バーク「純粋な」文学の三人の達人【『反対陳述』から】4

 

 女性と言語についてのエッセイのなかで、ド・グールモンは、競争に夢中な若者たちの傾向について述べ、ある種のアジア人は精神的なものの欠如のためではなく、その過剰によって絶滅したとつけ加えている。ド・グールモン自身、ヨーロッパの芸術の歴史のなかで最も熱気があり、競争に夢中であった時期にその活動を始めた。マラルメの周囲に集まり、象徴主義の美学と、観念論の哲学をもっていた若者たちの集団は、ド・グールモンがその初期の傲慢なまでの論争で誇らしげに示しているように、知的アナーキズムの道を進んでいた。もし各人が自分だけの世界を持っているなら――確かに、マラルメの幾つかの詩は、自分に好都合な条件のもと宵の明星を見るしかないように、いぶかしげに探り見ることしかできない――各人がそれぞれの慣用句を持つことは避けがたい。芸術において個人主義とは不条理な還元であり、自分自身に語りかけることに生涯を費やすことだが、それがあまりに有効で、生気に溢れているために、不条理への還元によって邪魔されることがないのである。もしそれが象徴主義の精髄なら、自らに語りかける以外の何も存在しないことになる。その運動〈それ自体〉が正当性を証ししている。

 

 こうした発明の熱気は、ド・グールモンがその『マラルメデカダンスの観念』で、歴史的概念としての〈デカダンス〉が創造的衝動が自滅的なまでに高まる時期ではなく、その最も低い時期を指すと示しているにもかかわらず、デカダンスの名のもと公然と非難された。

 

 デカダンであるとは、もう一つの連想に従えば、悪名高い〈芸術のための芸術〉を支持することである。ド・グールモンは、常に、芸術のための芸術の使徒たる以外の、民主主義的な基準に強い嫌悪感を示してきた。『リュクサンブルグの夜』で彼はこう言っている。

 

 「思考の過程というのはスポーツであり、このスポーツは自由で調和の取れたものでなければならない。それが無駄なものであると見なされればされるほど、それを美しく仕上げる必要を感じるようになる。美――おそらくそれは唯一の可能な価値である。」

 

 またそのエッセイの一つで、

 「大衆や個人を向上させられるという理由で芸術を認めることは、目薬を抽出できるという理由で薔薇を認めるようなものである。」

 

 芸術は、本能的な欲求である故に「正当化」される――それが欲せられるということに存在の十分な根拠が見いだされる。芸術は政治的、社会的改革の道具として擁護される必要はない。芸術は純粋かつ端的に一つの特権であり、この宇宙における例外として称讃されるべきである。そして、芸術が「善である」ことを示そうとするどころか、ド・グールモンは芸術が「有害である」とも、第一の価値を見いだそうとするだろう。芸術は非芸術的な基準から判断すれば、「破壊的」なものと見えるのも自然であろう。通常の問題の取り組み方とは反対の方向を取り、ド・グールモンは知的な探求だけが人間を他の生物から区別するものだと指摘する――従って、そうした探求を社会的に有用だからといって尊重するのではなく、そうした知的探求を可能にするような社会的制度をその有用性において尊重することになろう。

 

 この姿勢は、彼の批評的文章および虚構双方にある実験的性質にあらわれている。彼の規則の一つは冒険的であることだった。芸術は、それ自体が目的であることによって、個人の問題になるのであるから――あるいは、個人の問題になることによって、それ自体が目的となるのであるから――彼は理論的には外的な義務を課されることもなく、好きなように自分の表現媒体を発展させる自由があった。そして、この理論的自由は他のあらゆる芸術家同様、言いたいことを伝えたいという欲望によって検証されるので、作品の多様性に寄与することになった。彼が自分の文章に完全な磨きをかけた時点でそのスタイル上の発展が終るのは確かだが、彼の著作そのものは滅多に同じような続きものになることはなかった。衒学的イロニーと修辞的な脱線を詰め込んだ絢爛たる『シクストゥス』とは対照的に、のっぺりとした『リュクサンブルグの夜』がある。複雑な筋と、その折りに触れての解明という因習的な小説に近い『乙女の心』がある。しかしまた、「冒険と、思考、行動、夢、感受性が同一平面で扱われ、等しい善意によって分析される短篇」、『ディオメデの馬』もある。象徴主義が最初の輝きを見せたときに書かれた彼の幻想的な物語は、その内容においては乱雑な『魔術物語』のようなものである。この融通無碍な虚構には、彼の批評、文法的考察、科学的調査、哲学的エッセイ、現代社会についての注釈、芸術と文学についての議論、折に触れての詩が散らばっている――それが優美で知的なほぼ四十冊に及ぶ著作すべてにおいてなのである。散漫ではないにしても、そうした説に対抗しうるような重みのある反論もまた存在しない。

 

 1883年、二十五の歳に、ド・グールモンはパリで文学者としての生活を始めた。およそ八年の間、彼は国立図書館で働き、通俗科学作品を幾つか書いた。しかし、1891年、図書館とのつながりは、反愛国的な作品『愛国主義というおもちゃ』の出版によって終わりを告げた。この頃、彼の友人たちによってそれとなくほのめかされている病気に苦しみ始め、残りの生涯のほとんどをサンペレ通りの一室に閉じ籠もることになった。病気とは癩病である。確かに、その思索において彼ほど「オリュンポス的」であり続けた人物が、伝統的に恐ろしいものとされている重荷に苦しめられるということは他に例を見ない。その欠如によってのみ、我々は彼の難局を見いだすことができる。彼の女性に対する身体的なこぎれいさは、おそらく自分の病気を否定しようとする強い願いのあらわれだったろう。そして、彼の決定論の心理学的な対応物として定式化された「自由の幻想」は、ある意味、彼の実際の生活における深刻な制限に対する補償であっただろう。しかし、本質的に彼は世界の終わりを望むには知的すぎたし、個人的悲劇にかかずらうには好奇心が強すぎた。彼の哲学は、フローベルの作品に対する献身からは遠かったが、その旺盛な生産力によって、パリの文学仲間のうちでは、レミ・ド・グールモンというのはそうしたペンネームをもった集団のことなのだという噂が立った。彼は死ぬまで研究に閉じ籠もり、数人の親しい人間にしか会わず、ほとんど書物のなかで生活をした。哲学や文学の代表的な人物の知識の他に、後期ラテン文学に親しんでいることで、忠誠の悲惨さや間違いについて大きな知識の蓄えができ、そのはかなさを素直に称讃する数多くの作品が書かれるに至った。経験に関しても大著がある。生命力については、自らの気質で脈打っている。そして、スローガンとしては、おそらくはヒステリカルなスローガンであるが、彼の場合には十分に正当化されるものとして、「自由の幻影」があり、彼がフランスについて言ったことを彼自身にもあてはめることができよう、つまり、「イタリアとともに、ヨーロッパで最も自由な文学を、最もエロティックな魅力をもった国un pays qui possede,avec l'Italie,la litterature la plus libre de l'Europe et la plus delicieusement erotique」であると。




 超コペルニクス主義者であるド・グールモンは、世界が宇宙の中心であることを否定するだけでは満足しなかった。彼はまた、人間が世界の中心であることを否定した。彼はダーウィンに、人間を自然の究極的な目的と見なす古い宗教を危険にさらしながらも、「宗教的なお為ごかし」、神学的な傾向を見て取った。彼は人間がこの世界に第一に来るものでもなければ最後に残るものでもないと主張した。もし自然に偶然が認められるなら、人間性という特権は一つの偶然以上のものではなく、この偶然というのは他の種にも起こりうるものであり、実際、起こってもいる。知性は、おそらくは、本能の不完全な働きであるか、いまだ結晶化されていない本能の始まりである――それは、蜂や蟻が人間よりも進化において進んでいることを意味するだろう。『愛の物理学』で彼はこう言っている、「人間は自然の頂点ではない。彼は自然の〈なかに〉おり、生命の一環であり、それ以上ではない」と。この著作の目的は「人間の性的生活を唯一ある普遍的な性現象のなかに位置づける」ことにある。ド・グールモンは、人間は星々との関わりにおいてパッタ以上の重要性などないことを決して忘れはしない。また、人間は自分自身との関わりが甚だしく重要であることも忘れはしない。「知性は一つの偶然である。天才とは一つの災難である」と彼は『成功と美の観念』で書き、この発言には、知性と天才に関する彼の最も有意義となりうる貢献が含まれている。ド・グールモンは、先行者たちが絶望を見いだしたまさしくその地点に喜びを見いだした。

 

 全体としての人間という種の無用さを強調しながら、彼は個人を極めて重要なものとして主張した。デカルトの〈我思う故に我あり〉は、非常に単純で基本的なことなので、どんな野蛮人でも理解できるだろう、と彼はどこかで言っている。人間性とは一つの抽象物だが、孤立した人間でもそれを満足させようと望み、ないと苦痛を覚える。感覚が続く限りそうした全くの個人的な経験でも重要である。ド・グールモンは、人間性の集合が各個人を犠牲にして幸福になるといった完璧な政府などについてはほとんど考えることがなかった。「次の定理を十全なものとして受け容れよう、即ち、蜂にとって有益なことは巣箱にとっても有益なのである。」

 

 人間性を軽視し人間を重要なものと主張すること、知性をある種の病あるいは過ちと考えるとともに完璧に働く知性の美に熱狂すること、他のあらゆる動物とは異なる人間ではなく動物としての人間を見て取る平衡感覚によって、ド・グールモンはその作品に相当流動性を与えることになる相反する姿勢を保ち続けた。こうした両義性は特徴的なものであった。例えば、まったくの無神論者でありながら、彼は常にカトリシズムに対して情熱的な関心を示した。彼の最初の重要な学問的作品である『ラテン神秘主義』は、「交唱詩や中世の象徴主義」についての、部分的な翻訳と注釈を交えたアンソロジーであった。『ビロードの道』はパスカルとジェズイット派の分析である。しかし、一般的に予想されるように、彼のカトリシズムに対する共感がローマを言祝ごうとする熱意から来ているとは見なしがたい。というのも、彼は不毛なプロテスタンティズムに対抗して、豊かな異教の制度を守っていることでカトリシズムを尊重しているからである。単なる信条は彼にとって何の意味も持たない。彼の宗教的仲間の多くと同じように、彼は野外劇としての教会に関心をもっている。彼は宗教改革以前に、教会が徐々に異教を組み込んでいったことを残念な思いで見ている。彼は聖人の暦に残っているイタリアの守護聖人たちの働きと名前とを示している。彼はしばしば初期キリスト教美術に姿をあらわすギリシャの神オルフィウスは、予言者として聖アウグスティヌスにも劣らぬ権威をもっていたと指摘する。「純粋なキリスト教ピタゴラスの体系などすべて捨て去ることだろう。カトリシズムが、その名に忠実ならば、キリストの宗教とともに、迷信や東洋の神々のほとんどを我々に伝えるものである。」ド・グールモンを悲しませたのはプロテスタント革命ではなく、カトリックの改革だった。それ以後、教会における美の存在は当てにならないものとなった。教会美術は事実上終った。教会がキリスト教化されたのである。

 

 「カトリック美術が存在する。キリスト教美術は存在しない。福音主義キリスト教は、本質的に、人間の身体にしろ、その他の自然にしろ、あらゆる感覚的な美の表象に対立する。」

 

 こうした教会に対する姿勢の避けがたい帰結として、ド・グールモンは性を最も重要なものと主張する。(彼が精神分析家の名前に言及しているのを私は思いだせないが――彼は常に自分の考えの出所については率直である――フロイトやそのエピゴーネンの理論は常に彼の著作にあらわれている。しかしながら、平行関係はごく自然である――というのも、ド・グールモンは象徴主義の主導的な擁護者であり、チャールズ・ボードワンが指摘したように、精神分析学は象徴主義芸術の科学的な対応物だからである。)「人間の脳を人間の絶対的な中心として扱う間違いは、幸せでもあり立派なことでもあるが、間違いである。人間の唯一の自然な目的は再生産である。」あるいは、別の観点から、「美とは性的なものであり、異論の余地のない唯一の芸術とはそのまま裸体をあらわした人間の身体である。純粋に性的なものを主張することで、ギリシャ彫刻は永遠にあらゆる議論を凌駕している。」

 

 しかし、こうしたすべては、彼の感覚的生活に対する共感の一面に過ぎない。ド・グールモンはアナトール・フランスよりも徹底したエピキュリアンでもある。『ビロードの道』で彼は「官能は人間の創造であり、音楽や絵画のように少数の者のみが熟練することのできる繊細な芸術である」と言っている。『リュクサンブルグの夜』にはエピキュロスに関する新たな擁護論が含まれている。

 

 「友よ、数世紀にわたって幾つもの学派が君の感受性を毒し、エピキュロスの言う快楽とは精神の快楽に限られると信じさせることによって君の知性を混乱させてきた。エピキュロスは非常に賢明であったので、どんな快楽といえども軽んじることはできなかった。彼は人間の満足となりうるすべての満足を知ろうと欲し、また実際に知った。彼はその調和の取れた生において、何ものも濫用することなく、すべてを利用した。」

 

 『愛の物理学』の最後の章で、彼は長い情熱的な文章を書いている。「そこに贅沢はない・・・動物は多様性を知らず、能力を増進させることもない。人間だけが贅沢を知っている。」『レミ・ド・グールモンとその作品』で、ポール・デリオール氏は、プラトンの三つの魂を引用することでド・グールモンの姿勢を示している。νουζは「精神、知性」であり頭に宿る。θυμοζは「情念、感情」であり胸に宿る。επιθυμητιχονは個人や種の維持を補償する欲望で腹に宿り、プラトンによれば、凶暴な獣であるが、生存に必要であるから我々はそれを養い育てねばならない。ド・グールモンは知性のもっとも純粋な活動、感受性の働きを尊重するだけでなく、欲望の尊厳も認め、それが知性や感受性といった上部構造を支える優秀な基盤であることを理解していた。

 

 ド・グールモンは、「分離」という言葉を使用したときに、批評家としての自己を発見した。彼は我々が普通まとまった概念としているものが分割できることを好んで示した。「人間は、論理に従ったり、正確な検証によってではなく、欲望や関心に従って観念を結び合わせる。」『観念の分離』というエッセイにおいて、ド・グールモンはその方法によって自由になり、楽しくかつ厳密な書き方をするようになった。決まり文句の起源を定義したのち、彼はビザンチウムデカダンスという観念連合の例を取り上げる。そして、道徳性の本性を、個人は無道徳性においてより適切に発達することができるという根拠のある可能性を検証する。しかし、道徳性は個人を代償に種族を守る解決策である。このことから、彼は性的道徳性の基礎として、肉体的快楽-生殖という連合に至る。だが、彼の考えによると、真の連合は知性-不妊である。しかしながら、キリスト教は愛と肉体的快楽との間に注目すべき分離を行なった。かくして、兄弟姉妹の愛が可能となった。私は『オクタヴィウス』でミヌキウス・フェリクスがキリスト教の「兄弟愛」に関して、ローマの醜聞を反駁しておく必要を感じたのを思いだした。ド・グールモンは、ミヌキウスと同じように、性的関係のない愛を理解できなかったエジプト人を例に挙げている。彼は次にジャンヌ・ダルクについて、彼女がイギリス人とフランス人の心にもたらした相反する連合について考えている。すぐに彼は軍隊へ考えをおよぼし、軍事的行動がある場合にはいかに名誉と結びつくかを示している。次に、まったく異なった道を辿る醜聞や失敗があり、そこでは軍事的行動は不名誉にしか結びつくことはない。最後に彼は、なんの苦もなく検証でき、明確に並置するだけで分別できる言葉の一覧を挙げている。美徳-報酬、不正-罰、神-善、犯罪-良心の呵責、義務-幸福、未来-進歩。ド・グールモンがその分離の方法を文学批評の領域まで敷衍しなかったのは残念である。その方法は明らかにそれ以前のいかなる文学思潮よりも体系的に、詩や虚構の重要な語をとりまく連想群を活用することで効果を求めた象徴主義と対になる発見であった。