カンヴァセーション・ピースーールキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』(1974年)

 

 

 ヴィスコンティは、数人の監督によるアンソロジーの何本か、そして『異邦人』を除いてはすべて見ていると思うのだが、いずれも三十年以上前、しかもせいぜい2~3回しか見ていないので、記憶の彼方にぼんやりしていて、『愛の嵐』は主演女優のアリダ・ヴァリがあまり好きなタイプではないので、あまりいい印象をもっていないのと、『白夜』はドストエフスキーヴィスコンティをいう奇妙な取り合わせと、あまりにロマンティックな内容に辟易し、ラウラ・アントネッリの美しさが際立つ最後の作品、『イノセント』が一番好きだと思っていたのだが、なにしろ三十年も前の印象だから当てにはならない。

 

 このあやふやさは久しぶりに見返した『家族の肖像』にも遺憾なく浸透しており、ローマの高級な住宅に住む美術史家のもとに転がり込んでくる闖入者をアラン・ドロンダーク・ボガードだと思い込んでいたのだが、アラン・ドロンは『若者のすべて』から横滑りした連想であり、ダーク・ボガードについては、ジョセフ・ロージーの『召使』と混同していたに過ぎず、実際にはヘルムート・バーガーなのだった。

 

 しかし、もっとも大きな勘違いは、先に闖入者と書いたように、てっきりこの映画をロージーの『召使』(脚本は安部公房が好きだったハロルド・ピンター)や安部公房の『友達』のような、いつの間にか他人が家庭のなかに入り込み、親切そうな顔をしながら、実権を奪い取ってしまうような話だと思い込んでいたことにある。親族が権力闘争の場であることはフロイト以来自明のことであり、安部公房やピンターは共同体があるときには家族以上に暴力的で、しばしば顕在化することはない家族関係以上に闘争の最前線であることを示したわけだが、『家族の肖像』はそれに類した映画ではない。

 

 確かに、我が物顔に教授の自足した研究生活のなかに入り込んできて、独り合点に二階を借り受けると宣言する伯爵夫人は、騒々しくヒステリックで、繊細さのかけらもなく、ヘルムート・バーガーを若い愛人として、二人の子供のことには無関心で放置し、夫との関係は冷え切っている。教授とのあいだの価値観に共通するところはないし、教授が唯一心を許せるのは彼らにくらべれば節度をもち、教養もあるヘルムート・バーガーだけなのだが、彼はギャンブルで借金をこしらえ、さらには左翼の運動家として政治的に困難な立場にもあるらしい。そして、ここでも、ロージーの『召使』や同じヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』にも濃厚な同性愛的な雰囲気が漂っているのだが、ことさら倒錯的な世界が描きだされるわけではない。

 

 最終盤、研究の邪魔ばかりし、野蛮な彼らを教授は家族として受け入れようと思ったと述懐するが、そこにはいかなるアイロニーも混じってはいない。教授の母親(ああ、ドミニク・サンダ)との、妻(ああ、クラウディア・カルディナーレ)との短いが美しい回想シーンが幾度か挟まるが、そこには郷愁はあっても固着はない。そもそもイタリア語題を英語に直訳すると、Group of Family in an Interiorであり、教授の住宅の各所にかけられている数多くの家族の肖像画を示しているようでもあるが、母親や妻とのかつて経験してきた内奥の家族をあらわしているともいえるので、そこにかつて経験したことがない新たな家族が加わるのであって、いかなる意味においても、これは拒絶の映画ではなく、受容の映画であり、新たな家族の肖像を獲得しようとする老人の冒険譚である。