ブラッドリー『仮象と実在』 223

[現象、言葉の意味]

 

 我々の経験のどの側面も、それだけで実在になるものではないことを見てきた。なにものも主要なものではなく、他者や全体を説明する助けになることはできない。それらはすべて現象であり、すべて一面的で、その向こうに去って行く。しかし、このことを認めながらも、なぜ我々はそれらを現象と呼ぶのか尋ねられるかもしれない。というのも、そうした用語はただ事物の知覚的な側面だけに正当に属し、知覚的側面は他の側面のひとつであることを我々は認めているからである。あらわれることは知覚するものを除いて可能でないわけではなく、現象は判断と排除も含んでいると我々は言われる。他方において、すべてを含むような隠喩を主張することができるのか、もしそうなら、どれだけ語句や言葉が我々に残されているのか探求されるのは確かである。しかし、現象の場合、私は反論が力をもっていることを同時に認めることになる。私はその言葉が知覚と判断の側面を含んでいることは間違いないと思い、そうした側面がどこにでも存在しているわけではないことを私は同意する。というのも、たとえ我々がすべての現象が心的な中心を通ると結論するなら、それらの中心にあるのがほとんどが知覚でないのは確かである。そして、全体においてなにものかを仮定し、すべての現象が判断されるというのもまた擁護しがたいだろう。端的にいって、我々はある現象が心にあらわれではないこと、それゆえ、我々の言葉の使用に際して認可が含まれていることを認めねばならない。

 

 しかしながら、我々の形而上学における姿勢は、理論的なものでなければならない。ここで事物の多様な側面を測り、判断するのは我々の仕事である。それゆえ、我々にとって実在と比較するとなにものであっても足らず、現象の名を得るしかない。しかし、我々は事物が常にそれ自体において現象であることを示唆しているわけではない。我々が意味しているのは、それを判断するやいなや、その性格が現象になるということである。そして、その性格は、我々がこの著作を通じてみてきたように、観念性である。現象は内容が存在から離れることによってなる。そしてこの自己異化によって、あらゆる有限な側面は現象と呼ばれる。そして、世界中のあらゆるところにそうした観念性が行き渡っているのを見いだす。全体に足りないものは自己充足していないことが明らかである。その存在は本質において外側との関係を含んでおり、かくして内側が外部に感染している。至るところで有限なものは自己超越しており、自身から疎外されており、別の存在に移行しようとしている。それゆえ、有限なものは現象であり、一方では実在の形容であるがゆえに、他方では、それ自体は実在ではない形容であるからなのである。用語がこのように定義されれば、それを用いることに害がないのは確かだろう。