ケネス・バーク「特殊詩学、一般言語」 1

 

【『象徴行動としての言語』もちょっとだけ訳したので、ちょっとだけ。】

 

 

 まず第一に取り上げるのはポーのエッセイ「構成の哲学」である。このエッセイは、批評家にとっても、一般読者にとっても十分に味わわれてはいない。ポオが自分の詩「大鴉」をどのように書いたのか、彼が他の誰よりも自分のしていることをよく知っていたと思わせるものではあるが、一般的な傾向として感じられているのは、実際よりもずっと熟慮を経てきたかのように詩の起源をつくりあげている、そして、見せ物師的な意図でもって、或は、理性的な抑制の模範のように自らをあらわすことによって、個人的な欠点を補償しようとしているということである(設計図をもとにした職人であり、理論だけで詩の方法と内容を解決し、ユークリッドの証明のような厳密さをもった詩の原理であらゆる細部を導き出す)。

 

 彼が示そうとしているのは、「一歩一歩、数学の問題のように、正確で厳密な帰結によって完成していく作品」である。

 

 私がテキストとして使おうとする一節は、決定的な「もはやない」という繰り返しを鸚鵡によって繰り返させるのは「メランコリーに満ちた、百行に及ぶ詩」(彼は叙情詩に理想的な長さはこのくらいだと決定し————見よ、その詩は108行で終わり、ほぼ思い通りにいったのである)では相応しくないとし、大鴉に決定した経過をポオが「説明した」そのすぐ後の文章である。彼は既に、理想的な叙情詩は「を強烈に高揚させる」を目指すべきであり、最大の効果をあげるには、メランコリーが「詩の調子にもっとも適したもの」であるから、「悲しみ」の「調子」をとるべきだという「結論」に達していた。彼はこう続ける(我々の目的には最適の引用である)。

 

あらゆる点で至高の、完璧な対象を決して見失うことなく[後の議論のために私も「至高の、完璧な」という箇所を強調しておこう]、私は自問した————「メランコリーの主題のなかでも、人間の普遍的な理解にてらして、もっともメランコリーに満ちたものはなんであろうか」。死————それが明白な回答だった。「ではいつ」と私は問うた、「もっともメランコリーに満ちた主題がもっとも詩的になるだろうか」。既に説明したことから、答えはここでも明白である————「それがともっとも密接に結びつくときであり、つまり、美女の死がこの世でもっとも詩的な主題であるのは間違いがない————そして、こうした主題を語るにもっとも相応しいのは恋人を死によって失った者であるのもまた疑いのないところである。

 

 

 

 我々にとって、この一節がもつ重要な問題は、二つのまったく異なった注釈が予想される事実に関わっている。「この世でもっとも詩的な主題」は美女の死であるという主張は、詩学によっても、精神医学によっても答えが寄せられるだろう。我々のここでの主要な仕事は詩学の観点から考えることにある。だが、ポオの公式にある死体愛好的な意味合いを見過ごすわけにはいかず、特にそうしたテーマは彼にとって固定観念のようなものであり、心理学者が「チック」(例えば、ある種の話題が言及されるたびに、衝動的に瞬きしてしまう人々のように)と呼ぶ根深さでもって繰り返しあらわれるという事実があるからにはなおさらである。ある作家が病的なテーマに繰り返し立ち戻るとき、我々は彼の作品を単に専門的な達成としてだけではなく、一芸術家としての才能の範囲からは外れた個人的で、謎めいた感情的混乱が影響を及ぼしているのがあらわれていると考えがちである。そして、問題がポオのように、その個人的な障害が有名な場合には、なおさらそう考えるのが正当なように感じる。

 

 それはともかく、純粋に詩学の観点から言っても、多くのことがこの選択に関しては言える。例えば、美が彼の詩の範囲であり、それは悲しみやメランコリーによってもっともよくとらえられるとポオが言うとき、我々はこう言うことができよう、彼は悲劇に固有な情念への訴えかけに等しいものを叙情詩にもたらすためのある種の姿勢或は感情を求めているのだと。同じく、悲劇が憐れみをかき立て、憐れみが涙に終わる限りにおいて、ポオの叙情詩における美の観念も同じモチーフの周りを巡っているということができる。そこで、「いかなるものであろうと、美が至高なものにまで達すると、必ず感受性に優れた魂に涙を催させることとなる。かくして、メランコリーはあらゆる詩の調子にもっとも適したものである」と彼は言う。つまり、美女の死という特殊な主題に限定する前に、ポオは必要な変更を加えて、涙に暮れるメランコリーという叙情詩の悲劇的姿勢において、悲劇の行為に等しいものを得ようとしたのだと言える。

 

 死の主題について一般的に言うと、悲劇的な叙情詩の美という観念が厳粛で「高揚した」意味合いをもった話題を必要とするのが確かな以上、この選択は詩的に(或は修辞学的にと言うべきだろうか)正当化されるだろう。そのように扱われる死の話題は、伝統的に悲劇を高貴なものにする手段として役立てられている。

 

 より本質的なこととして、ポオが彼の理想、美的で荘重な詩が「至高で完璧」なものとなろうと言っていたことを思い起こそう。この問題を充分詳細に述べることはできないが、「完璧」とは文字通りに言えば完結性を意味する。「完璧」とは完全に成し遂げられたことである。この意味において、詩は完璧という観念に適切な形象を与えてくれる。

 

 次に、死という話題を詩的な目的のために用いるなら、一般的な話題を特殊性に縛りつけようとしているのは確かであり、そうした特殊なものを個人化しようとしているのである。少なくとも誰かが死ぬという話題は、この配合に与ることとなる。

 

 完璧のもう一つの考え方は、盛りにある人間という観念と結びついている。恋をしている人間ほどこうした観念にあった話題はあり得ないのではないだろうか。かくして、死者が最上の愛と結びつくなら、もう一つの詩学の要求をも満たすことになる。

 

 ポオの美の観念は、美学的なものであり、極度の感受性という観念と全体として混じり合っている。伝統的に言って、感受性の鋭い女性というのがここでの要求を満たすことができる。こうして、個人性という範疇は、女性の対象としてより特殊なかたちに限定することができる。

 

 かくして、主題については詩学に最適なものが選択されたように思われる。美しい女性の死、嘆く恋人、宿命的な繰り返しをなす荘重な死の使いである大鴉。

 

 だが、精神医学的には、詩学の名のもとに行なわれたこの「逸脱」に重要な動機づけの可能性があらわされているのではないかと疑問視する傾向がある。個人的には私もこうした留保に同意したい気持ちがあり、特にポオの作品にしみこんでいる死体愛好のテーマ、彼の作品に個人的な障害が絡み合っているということについてはそうである。だが、彼の作品が個人的苦境の単なる「補償」だという無遠慮な考えには決して賛成することはしない。人は十分な正当性をもって状況を転じることができ、個人的な苦境が文学的方法に反映している場合もあるとは言える。難局を脱するために芸術家が芸術を使用し、ときに成功し、ときに失敗するのは真実であり、しばしば芸術の実戦は芸術家を困難に陥れることもある。だが、それでも私は、詩学の名のもとになされるポオの「逸脱」だけではすべての動機づけの問題を扱うには十分でないと感じる者に同意するだろう。

 

 或いは、問題をこのエッセイの題に基づいて述べるなら、一編の詩としての特殊な詩について言えることは、一般的な言語の観点から見た詩(ポオの詩についてのエッセイ)について言える、より広範囲にわたる動機づけの問題を十分に掩うことはできないのだろうか。